境界第1章 雨

 人を殺しても罪には問われない。
 私たちはそのことを、誰に言われるまでもなくよく知っている。
 知っているからといって誰かを殺すわけではないし、けれどもし殺したいほどの強い気持ちがあるのなら、知らなかったとして思いとどまれるものでもないだろう、ということもなんとなく。ここにいるのはただの十二歳。物珍しさや好奇心で、報道されたり身の回りにあるいろんな事件について考えてみたりするけど、それはあくまでたとえであって、あまり私たちには関係がない。
 少なくとも私は、そう信じていた。

 午後から降り続いた雨は、弱まることなく次の朝を迎えた。
 たかだか5分歩いただけで全身がじっとり湿っている。軽く頭を振ると、首筋に髪の毛が張りついた。前髪も数えられる。雨の日は嫌いではないけれど、後始末がちょっといやかな。目に見える湿気はみんなのやる気をそいでいくようだ。電気の明かりに頼ってしまう教室の光景は、輪郭がぼんやりしていて動きが鈍い。まるで、冬の夕方のよう。まだ朝なのに、まだ9月なのに。
 誰かが窓を少し開けたらしい。うちつける水の音がざわめきを消した。雑音だらけの無声映画。部屋の四方がだんだんまるまっていくようで、絹の繭の中にいるみたい。吹き込んだ強い風がカーテンを大きく揺らして、また声が聞こえだした。白い布の陰で、鈴木くんが窓を閉めていた。
 ざわざわざわ、ざわざわざわざわざわ。
 ざわめきが波のように近づいて、広まる。いつもと同じなのに、同じはずなのに、なんか違う気がするのはきっと天気のせいだろう。空気がどんよりしてるから、響き方がきっと違うんだ。そう思った。もしかしたら、そう思おうとしてた。
 斜め後ろでかばんが机に投げ出される音がした。もはやランドセルを使っている人のほうが数少なくなっているのだ。
 「―れんかちゃん、聞いた?」
 ざわめきの正体をつれた葉子ちゃんがおはようも言わずに視界に飛び込んできた。首を横に振って答える。そうやって持ち出すときは、明らかに私が知らない内容だから。
 「三年生の男の子が、昨日、学校から帰ってこなかったんだって。それがまだみつかってないみたいでさ、大騒ぎらしいよぉ」
 あたりを見回し、一応声をひそめて。葉子ちゃんには同じく三年生の妹がいるから、きっと情報のでどころはそこだ。興味をひかれないわけではないけれど、どんな興味を持っていいかわからないので返事にちょっと困った。
 「―それって、知ってる子?」
 「それがね、ウサギ小屋当番で一緒になった中の一人らしいんだよね」
 もう二カ月も前のこと。最上級生という理由だけで三年生と一緒にウサギ小屋のそうじとえさやりを交代制で任される。あのとき、三年生は確か3人・・・ちょっと、いやな予感がした。一人の印象が妙に強い。やたらとウサギが大好きで、したったらずなぼっちゃんがりの、水色のスヌーピーのTシャツ。
 でも、葉子ちゃんはそこまでは知らなかった。だから少しほっとした。知っているからどうってことじゃないし、しらないから平気だってことでもないけど・・・よくわからない。どちらにせよあまりいい気分になるとは言えず、いやな気持ちの度合いの問題なのかもしれない。
 これ以上この話題は発展しそうになかったので、昨夜のテレビの話になった。まったく、小学生の世界は狭い。
 5分前のチャイムが鳴った。今日も呉林は遅刻すれすれかな、と隣の空席を見る。主のいない机は他にあとひとつだけだ。
 「千鶴ちゃん、今日も来ないのかな」
 「どうだろうね、わかんない」
 二学期に入ってわりとすぐ、千鶴ちゃんは突然学校を休み始めた。原因は誰も知らない。病気ではないらしいことはさいきんわかってきたけど、思い当たる節などなにもない。誰が行っても、千鶴ちゃんは会ってくれない。だから私たちは、ただ待っている。忘れた振りをして、気づかない振りをして。
 「やった! 間に合った!」
 ばたばたと登場した呉林は、局地的に湿度を一気に上げた。十分に水を吸ったシャツが下に着ているTシャツの柄をくっきり浮かび上がらせている。ズボンはひざから下が別の色だし、髪の毛は勝手に汗を流してる。
 「傘、さしてこなかったの?」
 非難がましい問いにも、やつは屈託がない。
 「さしてたけど、走ってきたからあんまり意味がなかったかも。あ、大丈夫、ちゃんと準備してきた」
 水滴がはうランドセル(そう、こいつはいまどきランドセルなのだ)から出てきたのは白くてふかふかなタオルと靴下。そして脱いだ靴下はビニール袋に。そういう準備をする余裕があったらもうちょっと早く家を出てくればすむことじゃないのか。シャツを脱いで椅子の背にかけ、しっとりしてきたタオルで呉林が机を拭いていると、先生が入ってきた。
 「起立」
 今日の日直は鈴木くんだった。さわやかにおはようを言いたくない気分なのは私だけではないらしく、みんなのあいさつもどこかまとまりがない。だが先生はそれについては何も言わず、機械的な動作で出席簿を開いた。「高橋は休みか」と言わなくなったのはいつからだっただろう。あきらめたのだろうか、それとも慣れたのだろうか。
 だがそれは、行方不明の3年生のせいにしよう。なんらかのコメントを期待したのだが、朝の会はいつもどおりに終わってしまった。そして先生はそそくさと廊下に消えた。
 「なんにも言わなかったね」
 葉子ちゃんに同意を示しつつ、国語の教科書とノートを準備した。
 本を読むのは好きだけど、国語はあまり好きじゃない。なぜかよくわからないけど、教科書にのっているものは面白くない気がする。ちゃんと読めば面白いものもあるってわかってるけど、はじめから読もうとする意欲が起きないのは、この表紙の少しざらついた手触りのせいかもしれない。読んで何を思ったか、考えたかを必ず言葉にしなければならないと、このざらざらはせまってくる。
 本は読むものだけれど教科書は学ぶもの。そんな大前提が面白さを妨げているのだとしたら、国語の授業なんていらないのに。
 「次、自習だぜ」
 ピースサインで、呉林が断言した。何を言い出すのかとあっけにとられる私たちの前で、がさごそと何かを取り出した。『デッド・ゾーン』の上巻。どこまで用意周到なやつなのか、こいつは。
 「もう、続きが読みたくて読みたくて。・・・まだ読み始めたばっかだから、貸さないぞ」
 じとっとした視線を都合のいいように解釈した彼は、私から本を隠そうとする。私はそんなやつではないから、負け惜しみも言わない。
 「別にいいよ、映画見たし」
 「なにっ! ビデオでか?」
 すごい剣幕におされてつい頷いた。呉林はさらにつめよる。
 「どこのレンタル屋? ビデオは絶版になってて手に入らないんだ!」
 「家にあるよ、ビデオ」
 「なに! 貸してくれ!」
 クラスがえは2年に一度、班はだいたい学期ごとに変わる。呉林とは今回、初めて同じ班になった。一年半も同じクラスにいながら、親しく会話するようになったのはほんの最近のこと。ちょっと変わったやつだという印象しかなかったから、こいつがこんなんだとは知らなかった。
 「貸してもいいけど・・・何か知ってるの?」
 「え、何を?」
 質問は、よろこびの踊りに隠れてしまった。
 そして呉林の言うとおり、一時間目は自習になった。
 行動は、班単位で仕切られる。
 クラスというひとつの単位にまとめられた三十六人は、さらに六人ずつにわけられる。学級運営を円滑に行おうとすれば、それは実に合理的な存在となる。
 けれど実際は、同じ班にならなければ、席が近くなければ、何かきっかけがなければ、同じクラスであってもろくに話したことのない相手というのはいる。だからこそ班は問答無用なのだ。
 給食の時間も、掃除当番も、理科の実験もさまざまな発表も、なにもかもを一緒にしなければならない。だから誰と同じ班になるかということはとても重要で、下手すると学校生活における死活問題になりかねない。なぜなら、その相手を私たちは選べないのだ。
 「そーた! また、さぼる気!」
 葉子ちゃんの叫びが廊下にこだまする。その原因である本田草太はサッカーボールをリフティングしながらそしらぬ顔。いつまでも続けられることを誇らしげに見せつけるが、評価してあげる人はここにはいない。掃除なんかもともとやる気のない彼に何を言っても無駄であることを私はよく知っているので、ほうきではきながら注意するにとどめた。
 「蛍光灯の下ではやめてよね」
 「おう」
 一応、聞こえてはいるらしい。今週の掃除割り当ては教室前の廊下と、それに続く四階から三階までの階段。横に水飲み場とトイレがあるけど、それは別の班の役目です。
 「集まった?」
 ちりとりを片手に純一郎が階段を昇ってくる。私と葉子ちゃんとで廊下のゴミをまとめて踊り場に押しやった。割り当て区域の中で、ここがいちばんちょろい場所。だからこそ一人足りない上にさぼるやつがいても、こうしてすぐに終わってしまう。
 「呉林は?」
 ほうきを片づけながら聞き、ゴミ箱までいく純一郎に持たせた。
 「まだ下じゃない?」
 掃除の後には反省会。なんでこんなことしなくちゃいけないんだろうっていう気持ちが形ばかりに終わらせるけど、班長がいないと。二・三段降りててすりから下をのぞくと、頭が出てきた。
 「呉林、ちりとり片づけるよ」
 「うん、いま行く」
 映画に出てくるペンキ職人みたいに、やつはほうきを軽々と肩にかつぐ。
 「ところで、階段のゴミは?」
 「ん、下に押しつけてきた」
 そしてそのほうきを私に押しつける。
 これが、これから4か月をつきあう相手だ。あたりなのかはずれなのか、まだよくわからない。
 その後の帰りの会で、先生がなんて言うのかみんなもう知っていた。どうでもいい連絡事項なんてもう誰も聞いていないのに、少しでも先のばしをしようと先生は無駄な抵抗を続けていた。しかし終わりは必ず訪れる。
 「−えー、それと、みんなも聞いていたかもしれないが・・・昨日から行方不明になっていた三年生が、今朝、遺体で発見された」
 予定されていたどよめき。
 「どうやら、遊んでいるうちに用水路に落ちたらしい。昨日からの雨で水位が上がったせいで、流されてしまったようだ。だから見つけるのにも時間がかかった。わかっていると思うが、みんなも危険なところには決して近づかないように。一人で遠くにも行かないように。わかったか?」
 はーい、と響いたのは愛想のない低音の返事。
 「では、日直」
 「−起立。さようなら」
 「さようならぁ」
 顔を上げたらもう先生の姿はなかった。
 「なんというありふれたお言葉なんでしょうねぇ」
 葉子ちゃんは失望の色を隠さない。しかし期待できることなんてあるんだろうか。かばんを肩にかけて、あとは帰るだけというところに、やたら明るい純一郎の声がひきとめた。
 「ねぇねぇ、用水路って、そこの?」
 「他にどこがあるんだよ!」
 草太のけりが入った。そこの、とはすぐそこで、学校のすぐ横を流れている。校庭のまわりをぐるりと緑色のフェンスが囲んでいるけれど、いくつか穴が開いているし、乗り越えようと思えばなんなく乗り越えられる代物。学校の西方向に住むものはこの用水路を渡る橋を越えてきているわけだし、近寄るなっていうのは無理な話。だからあたりさわりのない注意になってしまうのは仕方ないことなのかもしれない。
 雨はとっくにやんでいた。まっすぐ帰る気にはなれなかった五人は、傘を振り回しながらなんとなく校庭に出てみた。ウサギ小屋の裏のあたりのフェンスにわりと大きな穴があるのは周知の事実で、誰しもそこから用水路をのぞきこんだ経験を持つ。禁止されたからって、近寄らない理由にはならない。
 「−いつもより多いね。しかも濁ってる」
 いちばんはじめにのぞきこんだ呉林以上の感想は、誰も持てなかった。用水路といっても全部が舗装されているわけではなく、背の高い草がフェンスの内側に乱立しているから、かきわけないとよく見えない。どんどん靴が重くなるのは、地面が泥だから。歩くたびのぺたぺた、水がごうごう、ウサギ小屋からがさがさ。気分が軽くなる要素が何もない。傘を持っているのがいやになって、いつしかフェンスには5本のラインが走る。
 「あ、見て見て。糸がひっかかってるよ」
 めざとい葉子ちゃんが、濡れてくたくたの糸くずをさびた断面の近くで見つけた。のばしてみると、細い水色の糸の輪がいくつかつながっている。すそあげをミシンでやったみたいなやつ。
 「ばかだねぇ、誰か服をひっかけた人がいるよ。気をつければすむことなのにぃ」
 「−あの、3年生の子かも」
 せっかく場を明るくしようとした気づかいも、呉林のせいで台無し。てのひらに糸をのせたまま葉子ちゃんは固まってしまった。捨てようにも捨てられなくなった水色を、私は呉林に押しやった。
 「そんなこと言うなら、ちゃんと責任とってよ」
 「わかりました、とりましょう」
 なにがわかったのかよくわからないのだが、やつは大事そうに糸をポケットにしまった。さらに他にはなにかないかと、はいずるように探しはじめた。あきれ気味のため息とともに、腕組みしてつぶやいてみる。
 「でも、ここから落ちたとはかぎらないでしょう。あの橋のところかもしれないし、フェンスの穴だってここだけじゃないんだから」
 「そりゃね。でもここじゃないとも言い切れない」
 顔もあげない。確かにランドセルはこういうとき便利だが。
 「あれーっ?」
 また純一郎がとんきょうな声を。見るとウサギ小屋に額をつけるぐらい近づいて考えこんでいる。一応、尋ねておくのが礼儀です。
 「どうしたの?」
 「ウサギってさ、何匹いたかな」
 「・・・そんなこと言われても」
 当番以来近づいてもいないやつに聞かないでほしい。目で数えると、まばたきむっつ。言われてみると奇数だった気もするけど・・・悩みに沈む私のかわりに、葉子ちゃんが相手をする。
 「なんか、一匹死んじゃったみたいよ。あれ、ウサギって数えるのは一匹、二匹でいいんだった?」
 「羽、じゃなかったけ?」
 「あ、そっか。なんか前に聞いたことあるかも。昔、どっかの掟で鳥しかとっちゃいけないことになってい、でもウサギが食べたかったから同じように一羽って数えてごまかした、という。私がとったのは鳥です! って言い張ったんだったよね」
 「え? 聞いたことないよ」
 「あれ? じゃあ、どこで聞いたんだろう」
 妙な方向に行ってしまった。だが葉子ちゃんのはじめの言葉にも純一郎は納得した様子はない。なにが気に入らないのだろう。かたや十分気が済んだらしい呉林が近づいてくるが、純一郎はひとしきり首をかしげて、人差し指で額をつついている。誰の真似だ、それは。
 「うーん、どうもなぁ・・・あの顔に見覚えがなくて」
 と眉間にしわをよせながら、小屋の片すみで耳をぴくぴくさせているやつを指す。こんなとき草太ならけりを飛ばすはずなのに、と首を動かすと、フェンスの向こうで人が動いた。
 「草太、ちょっと待った!」
 さすがにまずいだろ、と思った瞬間、遠くからでも十分に大声とわかる声が背後から。
 「こらっ! おまえたち、なにしてる!」
 校舎から手を振り上げた人が出てきた。
 「やばい、逃げろ!」
 なんと1・2・3でフェンスを乗り越えた草太が叫んだ。呉林と二人で傘をまとめてかかえてくれたので、心置きなく逃走に専念できた。
 玄関で靴の泥を落としていると、夕刊が来た。
 スーパーと仏壇屋のチラシを投げ、テレビ欄の裏を開く。悪い予感はあたっていた。
 失望と落胆、だがそれは悲しみではなかった。ただ心が沈み込むような、怒りともまた違うんだけど、ともかくもじわじわと広がるいやな感じ。胸や喉がしめつけられて苦しいような、とても居心地が悪いような。
 新聞をたたんで、チラシと一緒に居間のテーブルに置いた。かばんを部屋に投げ込んで、机の上の本をかわりに持つ。
 「出かけるの?」
 台所から母の声だけが追いかけてきた。
 「お隣。本、返してくる」
 泥つきのスニーカーはやめて、サンダルにする。自転車があったから、遥さんはもう帰ってきているはず。
 玄関先では遥さんのお母さんが掃除をしていて、顔を出すとそれだけで招き入れられてしまった。
 「や、いらっしゃい」
 家の中では基本的に部屋着という名のパジャマ姿が信条、という遥さんはいつも見覚えのある恰好をしている。ローテーションを見尽くてしまったのか、私が遊びに来すぎなのか、きっと両方なんだろう。
 「面白かった?」
 「めちゃめちゃ。読むの途中で止められなくなって、ご飯遅れて怒られちゃった」
 手の中の『自殺クラブ』を持ち主の手に戻しながら、答えた。おかげで後片付けをさせられてしまったけれど、一気に読み終わったよろこびは大きい。
 「なんか『赤い部屋』みたいな感じ」
 「そこでそういう感想がでてくるのが、キミがただ者じゃない証拠だよ」
 明らかにただ者ではない人からそう言われるのは、うれしいようなくすぐったいような気持ち。照れくささをまぎらわすためにお茶をいただく。今日のは甘い、ライチの匂いがする。
 「もうフロリゼル王子のシリーズはないんですか」
 「残念ながら。ホームズにならって、とまではいかなくても、もうちょっと書き遺してほしかったけど。『クリームパイを持った男の話』は何回読んでも面白い。あ、そうか。私がこれをいちばんはじめに読んだのも6年生だったかも」
 「そうなんですか?」
 「うん。確か、ちょうどスティーブンソンの全集が入ってきたんだ」
 とてもうれしいことを思い出したような笑顔。だから私もとてもうれしかった。大切な記憶が、共通の思い出になる。ならば6年後には、この人のようになれるかもしれないではないか。
 「次は何を持ってく?」
 開放された本棚は知識の山。でもあまりに大きすぎるから、どこから登っていいのかいつもわからない。またお薦めをうかがったほうがいいのかも。
 何がいいかなぁ、と本棚をひっかきまわす背中が、合間になにげなくつぶやいた。思わずカップを持つ手が止まる。
 「・・・ところで、夕刊に載っていたのは知ってる人?」
 「・・・多分、そうだと思います」
 朝からの出来事を、そしてさっき感じたことを言ってみる。遥さんなら、これがなんなのかはっきり形にしてくれるだろうと思ったから。
 「そうだね・・・なんて言っていいかよくわからないんだけど」
 ゆっくり前髪をかきあげて、遥さんは少しせつなそうに見えた。
 「どうせなら、おもいっきり悲しめるぐらいにその人のこと、知ってたらいいのに、って思うよ。実際にそうだったらきっとつらいのはわかってるけど。あの糸のことだって、わかったからどうってことはないんだけど、そう思ったり考えたりすることに意味があるっていうか。・・・でもとりあえず私は、その気持ちに『やりきれなさ』って名前をつけとくよ」
 あ、それだって思った。やりきれなさ。
 いてもたってもいられないような、悲しみのようないらだち。それとわかって、ほっとしている自分に気づいた。呼び名が決まっただけで安心できるなんて、考えることはそれじゃないはずなのに。満足しながらもどう返していいかわからない私に、遥さんは一冊の本を差し出した。
 「これなんかどう?」
 『キャベツ畑でつかまえて』、その表紙にはつり目のガチャピンがいた。

 夕食の席、心配症の父は事故にひどく心を砕き、つまりは口うるさいほど私に気をつけるよう言った。返事をしてもしばらくするとまた話題が出る。あまりに何度も繰り返すのでいらいらしたけれど、私の前に母が怒った。
 「一回言えばわかるでしょう! それに、れんかは言われなくてもそういうことはわかってるわよ。もうちょっと自分の娘を信用したらどう」
 父は口ごもり、信用してないってことじゃないんだ、だって心配じゃないか、などとそれでもぶつぶつ言っていたけれど、母ににらまれて口を閉ざした。いつものことなのだけれど、言い争いや意見の対立などがあっても、父が勝利をおさめたのを見た記憶がない。せいぜい引き分け。けれど、父が我慢を強いられているというわけでもなくて、そんなのを父は楽しんでいるような気がしないでもない。子供には、よくわからないけどね。
 あの糸のことは話さなかった。そんなことを言ったらまた父が何か理不尽なことを言い出すと困るから。事情なんて一切無視して、フェンスを軽々と乗り越えるような草太とはかかわりあってはいけない、とでも言いかねない。ほんとに言いかねないから。
 野球の結果なんてどうでもいいから、宿題があるからと部屋に引き上げる。明日の準備をしながら、ぼんやりと考えてみた。
 私はどう思いたいのか、ということを。
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written by Koolin
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