第2章 女の敵は女
「いやぁ、昨日は危機一髪だったな」
その言葉を額面通りには受け取れない不敵な表情で。草太はあの後、ゴリラのような教師からどのように逃げのびたのかを楽しそうに語った。走りながら傘を分け合い、それぞれの帰り道で別れたので、家の方向が同じ草太と呉林が最後まで追いかけられたようだ。けれどその形容は本物のゴリラに対して失礼だ。
「でも、おかげで手のここ、すりむいたよ。ブロック塀にこすった」
ため息まじりの呉林がひらひらさせる右手には、手の甲を斜めに横断するバンソーコーが。
「それはおまえの運動神経がなってないからだ」
「そりゃ、草太に比べたら誰だって」
もちろん皮肉だが、草太はふふん、と胸を張る。身長は私より低いんだけど、自信ありげな態度のせいかいつも大きく感じる。チームワークなんか一切無視、すぐに手も足も出る野蛮なやつだと思われがちだけど、彼はただの乱暴者ではない。
「今度からバンソーコー、持ち歩こうと心に決めたよ」
そんな決意をしてどうするのだろう。つまりは反省とかしてないってことだ。
「バンソーコーなら、いつも持ってるよ」
葉子ちゃんがポケットからティッシュを取り出した。その裏のビニールのすきまから3つつながったキティのバンソーコーが見える。彼女はまめな人だ。
「いいね、その使い方。おれも今度からそうしようかな」
「そうしなさい」
「でも、これかわいいね」
そのティッシュには、バケツを片手に釣竿をかついで歩くくまさんが。そう言うと葉子ちゃんはやけにうれしそうな顔をした。
「で・しょう? お母さんが買ってきたんだけど、もう気にいっちゃって気にいっちゃって。ありそうでない感じでしょ? 使うのがもったいなくって、街でもらうティッシュも持ってきてるよ」
かばんから出てきたのは金融会社の名前入り。
「使わないなら持ってる意味ないじゃないか」
合理主義者・本田草太がしげしげとくまさんティッシュを見つめる。かわいい物を持っているだけでうれしい、という感情を彼に理解してもらうのはなかなかに難しい問題で、葉子ちゃんにもそれはわかっているから、少し困ったように微笑んだ。頭をかきながら、その存在をポケットにしまう。
「まぁ、そうなんだけどね」
「だって、使ったらなくなるじゃないか」
そんな感情を理解できるらしい男・大友純一郎が代わりに説明してくれる。草太の眉が上がった。
「そもそも使うために持ってるんだろうが」
「そうだけど、うーん、持つことが目的ってこともあるんだよ」
「だったら使ってもなくならない物にこだわればいいじゃないか。筆入れとか、したじきとか。じゃなければ同じ物をずっと使い続ければいいじゃないか。同じ柄のやつとか。そうすれば今持ってるもの全部使っても、次また同じ物があると思えば『もったいない』って感覚は出てこないだろ」
うーん、と純一郎はうなっている。普段は人の話を聞いているのかいないのかわからないのに、気が向いたときの草太はやたらにおしゃべりで、納得しないと話が終わらない。そして純一郎では草太を説得できない。だから葉子ちゃんがあとを引き取った。
「うん、そーたの言ってることはわかるんだけどね。いつも同じのを持ち続けるっていうのもちょっとつまんないんだ。そのときそのときで気に入ったものを持ちたいんだけど、これはいつかなくなるんだってわかってるから、余計にそれがかわいくて、もったいないような気になるのかな。・・・どうかな、れんかちゃん」
そうだね、多分。そう同意する私を、全然理解できてない顔で草太は見る。他の男二人がなんとなくの共感を示したのでさらに眉間のしわが深くなる。
「さっぱりわからないよ。オレはおかしいのか?」
「いやいや、ただの見解の相異さ」
そう呉林がまとめて、議論を一時打ち切った。納得のいかない草太からは、先程の自信たっぷりの色はなくなっていた。
昼休み。呉林が持ってきた本を見せられることになった。彼がなぜ『デッド・ゾーン』にいれこんでいるのか、その理由を明らかにしてくれるらしい。
「信じられないよ。貸してくれるって言ったじゃないか」
「あ、ごめんごめん」
確かにそんなことを言ったかもしれないが、昨日のことを考えれば忘れても無理はないと思ってもらいたい。謝ってはいるけれど心は全然こもっていない。
「帰りに、家に寄らせてもらうからな!」
「・・・はいはい」
ハリウッド映画男優名鑑、と題された分厚い本に葉子ちゃんは目を輝かせたが、あるページを両手でしっかりおさえたままの呉林に他を見せてくれとは頼めない。のぞきこむまでもなく、つきつけられる名前。
「クリストファー・ウォーケン? ・・・そういう名前なんだ、この人」
「失礼だな! なんでそういう意識のやつがあの映画を!」
「関係ないよ、それ」
よくわからない心情は無視して、本を奪い取ると写真の下のプロフィールを読み始めた。
一九四三年、アメリカ・ニューヨーク生まれ。
ショービジネス界には七歳から。十六歳でブロードウェイに進出、数々の演技賞を獲得している。七一年『盗聴作戦』で映画界入り。七八年『ディア・ハンター』でアカデミー助演男優賞を受賞。だが、良き理解者であったマイケル・チミノ監督がハリウッドを放逐されて以来、デビッド・クローネンバーグの『デッド・ゾーン』(昏睡状態を経て特殊な能力を持つに至る男の苦悩を好演)以外では、エキセントリックな個性派としてだけの起用が目立ち、本領発揮までには至っていないのが現状である。マイケル・チミノ以上の理解者の出現が待たれる。
「次、見せて見せて」
読み終わった名鑑を面食いの葉子ちゃんにスライド。きゃあきゃあ言いつつお気に入りの俳優さんを探し始める。
「どうだ!」
なぜか、呉林は両手を腰にあてている。
「どうだ、って・・・呉林がこの人を好きなんだってことはわかったよ」
期待通りの返事をしてどうする。
「『デッド・ゾーン』見たんだろ? 感動しなかったのか? かっこいいとは思わなかったのか?」
「かっこいいと思ったし、感動もしたけど、役者の顔とかいちいち覚えてないよ」
答えは深々としたため息。それはそれで失礼じゃないのか。呉林にとっては俳優『クリストファー・ウォーケン』かもしれないけど、私には彼は『ジョニー』でしかない。彼がどんな映画に出ていようとも、ジョニーはあの映画の中にしかいない。それだけのこと。
「れんかちゃん、見て見て! この人かっこいい!」
指した名前はイーサン・ホーク。葉子ちゃん好みの細面である。優男系細面美男というのが彼女の絶対条件で、「顔が四角いから」という理由で最近まで多数派だったブラピ、リオファンと対立している(レオナルドの愛称はリオなのだから、レオさまと呼ぶのはおかしい、と彼女は言う)。もっとも彼女のいちばんの好みは何年も前から映画『スタンド・バイ・ミー』の主役の少年なのだけれど、対立派はそもそもこの映画を知らない。
「れんかちゃんは? どんな人が好き?」
「そうだねぇ」
次のページをめくろうとして、不自然に指がずれた。すぱっといってしまった。人差し指に走る白い線が、ゆっくりと染み出た赤に埋もれていく。
「やってしまいましたよ」
「やってしまいましたね」
目を合わせて苦笑い。思わず傷口をなめそうになったけれど、経験上しみるのを知っていることを思い出し、やめた。紙で切ったあとってあとから痛くなるんだよね、ちょっと暗い気持ちになる。
「はい、これ」
今朝のポケットティッシュが救援に現れた。こちら側に染みてくるほどの血ではなかったけど、葉子ちゃんはきれいに指に巻いてくれた。
「ありがとう」
「いやいや」
「あっ!」
ほのぼのした空気が裏返りそうな大声に引き裂かれた。池下美知がこっちを指さしたまま硬直していた。が、それも一瞬だけ。
「とった! 私のとった!」
あっけにとられてしまって何も言えなかった。それは彼女の叫びを止めるタイミングを逸するのには十分な時間で、おかげで次に彼女の息が切れるまでの間、その言葉の意味をじっくり考えることができた。その分まわりの注目も集めてしまったけれど。
早合点したらしい呉林が俳優年鑑を両腕でしっかり抱えたが、彼女はそんなものには目もくれない。困っているのは葉子ちゃんだ。
「え、でも、これ、私のだから・・・」
「ちがう! 私の! だってさっきまであったのに、今はないもん! だから私の盗ったんでしょ!」
髪まで振り乱した見事な三段論法だった。言葉の通じない相手に対してできることはあるのだろうか。葉子ちゃんのまなざしが瞬時にして薄暗くなる。げんなりした気持ち。
「さっきって、なくなったのはいつなの?」
とりあえずなんとかしなければならないと思って、冷静さを口にする。池下美知は標的を変えた。
「給食の前には、あった」
「じゃあ、違うよ。葉子ちゃんは朝からこれを持っていた。たまたま、同じのを持ってるってだけのことでしょ。盗ったとか盗られたとかそういうことではなく」
話はこれで終わるはずだった。しかし彼女の論理は超越している。
「ともだちだから、かばってるに決まってるでしょ!」
その暴挙の結果として、五時間目に緊急学級会が招集されることになった。
コの字型に机が並べられ、教壇にはクラス委員の鈴木くんが座らされる。かわいそうに、鈴木くんは明らかに困惑していた。個人のつるしあげは学級会の趣旨に、つまりは彼の主義そのものにも反するから。だが、池下美知は意気揚々と立ち上がる。
「私のティッシュがなくなりました。給食の時間の前、手を洗いに行ったときにはかばんのポケットに確かに入っていました。そうしたら、水上さんが私と同じものを持っているんです。あれは私のものです。なのに認めようとしません。みなさんはどう思いますか」
みなさんは、というのが曲者なのだ。つきつめていくとはじめは一人の意見だったものが、いつのまにか『みんなの意見』になっている。真実はいつもひとつ、なんて言ってくれる人は現実にはそういない。だからこそ負けられなかった。もはや葉子ちゃんひとりの問題じゃない。
鈴木くんが葉子ちゃんをみた。言いたいことがあったら言っていいんですよ、というように。証拠物件として押収されたくまさんは、自分の置かれた状況も知らずのんきに教卓の上を歩き続けている。
「それは私のものですから。一昨日、お母さんが買ってきてくれました。疑うなら聞いてもらってかまいません。私は池下さんのものを盗ってはいません」
拍手したくなるほど毅然とした態度に、相手がひるんだのがわかった。目が泳いでボスに助けを求めた一瞬を見逃すほど私はばかじゃない。
池下美知がクラス内に多大な権力を持つ高田忍の一の子分であることは誰もが知っている。そして葉子ちゃんと私がその傘下にいない、ということも。どうやら学級会を開けというのもこいつの入れ知恵らしい。
「確か、家族の証言って効果がないんじゃなかった?」
ボスの一言に緊張が走る。彼女のとりまきはせいぜい4・5人で、男子のほとんどにはその権力は及んでいないはずなのに、クラス全体はとりあえず静観を望んでいるようだ。
「えー、ここは法廷ではありませんので、証言云々は関係ありません。なにか、意見のある方は?」
はい、と私は手を挙げた。鈴木くんが許可をくれたので立ち上がる。
「水上さんが今日の朝、これを持っていたのを私は見ています。だから、池下さんが間違っている」
「なんですって! そっちこそ、同じ班だからってかばって嘘ついてるんでしょう! 親しい人間の言うことは信用できない」
激昂する彼女から予想通りの答えが返ってきたので少し悲しくなる。ひとつの考えにこりかたまってしまったら、めったなことで意見は変わらない。どうしたら葉子ちゃんの無実が証明できるんだろう。なくなった品物が出てこないかぎり、こいつは絶対納得しないに決まってる。
「そのかばんのポケットの中、ちゃんと見たの? もう一回探してみたらあった、なんてことはないでしょうね」
「他の人にも探してもらいました! なんだったらここで中、見せましょうか!」
皮肉の通じない相手は顔を真っ赤にして叫ぶ。他の人って誰ですか? 友達の証言なら信用できないんじゃないですか? 頭の中に渦巻く反論を口にするタイミングを、呉林に奪われた。
「でも、僕も見たよ。同じ班だし、信用されないかもしれないけど」
そんな穏やかさも火に油を注いだだけだった。だんだん、6班vs2班という様相を呈し始める。
「絶対とった」
「とってない!」
「だってかばんにハンカチはちゃんとあるんだよ。ティッシュだけないなんておかしい!」
「そんなの関係ないでしょう!」
二者の主張は平行線で、決してまじわることはない。かわいそうなのは鈴木くんだ。2班の班長でもある彼は、中立であるはずの議長の立場を不当に非難されていた。
「うちの班のくせに、他の班の味方をするの?」
「いや、僕は公平な立場から・・・」
「なによ、えらそうに。たまには自分の意見ぐらい言ったらどうなの?」
というわけだ。やつあたりを投げつける相手に、委員長だからという理屈は当然通じない。
がたん、という音が騒ぎを中断させた。草太が椅子を倒すほどの勢いで立ち上がったのだ。その視線の先にいた人物は、明らかにひるんだ。
「・・・な、なによ」
「ちょっとトイレ」
そう言って、漂う緊迫感にあっさり背を向けて草太はすたすたと後ろの扉から教室を出ていった。おそれと期待が肩すかしにあい、いたるところでため息がもれる。私も胸をなでおろした。
「な、なんなのよ、いったい。・・・そもそもあんたたちの班は問題ありすぎなのよ」
そこで息を吸った。空気を変えたいがための悔し紛れの発言だとわかったけど、だからって続く言葉を許すわけにはいかない。
「あんな乱暴者はいるし、一人は学校に出てこないし。そうよ、あんたたちがなんかしたから出てこないんじゃないの?」
「それは今、関係ないでしょう!」
机の上に何かあったら投げつけていたかもしれない。それくらい怒りがわいた。だからかわりに机をたたいた。純一郎の肩がびくん、と動いた。
「千鶴ちゃんが学校に来ようが来まいが、それは個人の自由でしょう! まして証拠もなしに人を泥棒扱いする人に言われたくない」
「だけど、学校をさぼるのはよくないと思うけどなぁ」
なぁんですって! と叫びたそうな池下美知を抑えて、加代ちゃんがやんわりと言った。あ、ごめんね、と委員長に突然の発言をことわる余裕を見せる彼女は感情論に飽きたらしい。私としても理性的な人の相手をしたいところだった。
「よくないとしても、自分で決めたことだったらいいんじゃないの? 学校に来ないなら来ないなりの理由があるんだろうし」
「理由は確かにあるだろうけど、だからって学校に来なくていいってことにはならないと思うんだけどな。来たくない理由があるなら、解決するとか、努力するとかすればいい」
努力・・・正当性という言葉の重み。加代ちゃんならできるだろう、努力を尊ぶ人だから。正しいことは正しいと、疑いもなく言い切れる加代ちゃんが少しうらやましくもあったけど、誰もが前向きで強い人ばかりとはかぎらない。まして、千鶴ちゃんの事情は誰にもわからないのだ。
「努力しようと思ってもできないことだったら? どうにもならないことだったら? 言葉はあまりよくないけど、逃げることだってひとつの選択肢じゃない。もちろん、千鶴ちゃんが逃げてるってことじゃないけどさ」
「でも、学校に来るのは義務でしょう?」
「だから、来なきゃいけないところに来ないってっていうリスクを承知の上で来ないんだから、よほどのことじゃないかってこと」
初めて、加代ちゃんは考え込んだ。
「・・・それもそうね。まわりに迷惑をかけてるっていうより、あとあと自分が困ることだもんね」
困る? 『学校に行かない子』と一度見なされたら一生のハンデになるの? まわりがそういう目で見るからじゃないのかな? 納得はいかなかったがともかく加代ちゃんとの話は終わり、議論は元に戻りつつあった。鈴木くんは様々な大きさの暴言の嵐にもめげず、どうにか事態を収束するために立ち上がる。
「えー、はっきり言って話はこれ以上進みようがないと思われます。確かなのは池下さんのティッシュがなくなった、ということだけですから。ですからそのことで、水上さんが非難されるいわれは」
「ちょっと待った!」
タイミングをはかっていたかのように、颯爽と草太が出ていったところから登場した。
「・・・なんでしょう、本田くん」
押され気味ながら、律義に答える委員長に草太は右手をあげて応えながら教卓まで進み出る。クラスの視線を一身に浴びていることを十分に意識した行動だった。さらにそんな効果を楽しむようにぐるりと教室を見回した。
「さて、オレたちにかかっている濡れ衣を晴らすてっとりばやい方法はなんだ、委員長」
「そうですね・・・やっぱり、なくなったティッシュが戻ってくることじゃないですか。水上さんのはここにこうしてあるわけですから」
それにふふん、と鼻で笑って。
「じゃあ、これで無罪は決定」
ばん、と教卓にたたきつけられたのは無傷の、もうひとつの歩くくまさんだった。
「・・・さっきは、ごめんね」
掃除のさなか、加代ちゃんは私を手招きし、申し訳なさそうに言った。けれど彼女が謝る理由などどこにもない。思ったことを話しただけで、どう思おうがそれは一人一人の自由だから。それに、謝るべきなのは別な人です。
だから私は首を横に振った。そんなこと彼女にだってわかっているのに、それでも謝ろうという気持ちがうれしい。私たちは握手をして、和解した。
「あれ、そこ、どうしたの?」
加代ちゃんの右袖がちょっとやぶれていた。ワインレッドの綿ブロードのシャツ、よく見ればやぶれているというよりも切れている。見つかったのが恥ずかしそうに、加代ちゃんは一瞬頬を染めた。
「ん、ちょっとね。どっかにひっかけたのかも」
そう言って、持ち場に戻る。余計なことを言ってしまった、と後悔してももう遅い。うつむきかける私の前を通り過ぎようとする人物が、落ち込むのを引き留めた。名前を呼んでも立ち止まらないから追いかける。
「ねぇってば、なんでわかったの?」
他のメンバーも合流。が、草太は雑巾なんか持っちゃって、まずは掃除をしたまえよ、などと言う。だから速攻で廊下掃除を片づけて、反省会の振りをして踊り場に集合だ。
「簡単だよ」
取り囲まれる状態にいささかの照れをおぼえたのか、草太は無表情で壁によりかかって腕を組んだ。けれど続くのは驚くほど静かな口調。
「かばんにしまったのが『給食の前』って言っただろ。おかしいと思わないか?」
なるほどね、と呉林が頷く。
「普通、手を洗うのは給食の前。そのときにハンカチを使わないでいつ使うんだ、って話」
つまり、かばんにしまう前に水飲み場へ立つ、という行動がある・・・そうか、なんで気づかなかったんだろう。そうすれば池下美知に目にもの見せてやれたのに。私憤が顔に出たらしく、草太に笑われた。
「ま、普段のれんかなら気づいたかもな。かなり頭に血がのぼってた」
「・・・面目ない」
「ちょっと待ってよ。勝手にそれぞれ納得しないでさ」
「あ、悪い悪い」
純一郎に促され、その続きを。
「ハンカチとティッシュは多分ポケットに入ってた。手を洗って戻ってきたときに、かばんにハンカチをしまった。その間にティッシュが消えたとしたら、落ちているだろう場所はただひとつ。さあ、どこでしょう」
指をさされた純一郎は、一瞬考えていた。
「水飲み場?」
「正解」
「手を洗ってからハンカチを教室のかばんの中に入れるまでの行動は、多分に無意識的なものだったんだろうね。だからくまが落ちたことにも気づかずに、そこにあるものだと思い込んでいた、と」
「そんなとこだろ。どっちにしろ給食の前であることにはかわりない」
呉林の理屈っぽい解説に頷く草太。黙っていると二人でどんどん話が進んでしまいそうなので、葉子ちゃんが割って入る。
「じゃあ、水飲み場に落ちてたの?」
「そう思ったからあのとき出ていったんだ」
「でも戻ってくるのにちょっと時間かかってたじゃない」
「探すのに手間取った」
「一目で見渡せるでしょ、あそこ」
「ごみ箱の中にあったんだよ。誰かに捨てられてたんだ」
一拍おいて、純一郎が拍手した。私たちもそれにならう。草太はちょっと鼻で笑う振り。
「そっかぁ、ごみ箱に捨てた人がいなかったら、もしかしたら池下さんは落としたことに自分で気づいたかもしれないね」
「そんなことはない!」
人の良さ丸出しの純一郎に、私はきっぱり反対した。葉子ちゃんもあとを続ける。
「そうだよ。落としたことがわかっても、こっちを非難しかねないよ、あの人たちは」
「・・・なんでそんなに仲悪いの?」
「嫌いだから」
二重奏の返事に、男三人は笑い出す。でも私たちにしてみれば笑い事ではない。権力の縮図のような彼女たちの関係は、私たちには邪魔なものでしかない。なのに振り回されてしまうこのいらだち。
「嫌いだったらつきあわなきゃいいのに」
「いや、別につきあってなんかないよ。目の仇にしてくるのは向こうのほうなんだけど」
「こっちが向こうを気に食わないように、向こうもこっちが気に食わないってのはわかるんだけどね。だからって売られたケンカを受け流すほど、こっちも人間ができてないのよ」
明らかにあきれているらしい草太が、雑巾をボールのように投げようとした。
「たかがティッシュじゃないか。使っちまえばなくなるもんなのに、そんなにまでしてどうするよ」
女王様は反乱分子を容認しない。ひざまづかせるかたたきつぶすかしなければ気持ちは収まらないのだろう。だが、ニセ女王様に負けてなんかいられないのだ。こっちにはこっちの意地も、事情もある。
怖いですねぇ、とつぶやく純一郎の感想には奇妙なリアリティが漂っていた。男と女は違うんだよ。
「だけどまだ新しいティッシュを、いくら落ちてるからって捨てるかな?」
「そうね、使いかけならともかく、まだ開けてもなかったもんね」
「まぁ、普通は落とし物係に届けるか、ネコババだな」
「じゃあ、なんで捨ててあるんだ?」
「まさか・・・」
葉子ちゃんと私は顔を見合わせる。やりかねない、という言葉は誰よりも、高田忍に似合う。あの態度から考えて、池下美知はほんとうに盗まれたんだと思い込んでいた。すべてを見越した上での、ボスの画策だとしたら。その可能性はある。
「それでもなにがあったって負けないわよ。ね、れんかちゃん」
「まったくだわ」
手を握りあう。同志の固い誓いを見て、草太は笑いを押し殺している。
「まったく、これだから女って・・・なんでこんなに仲が悪いかな」
「知らないの、そーた」
意味ありげに、葉子ちゃんは微笑んだ。
「女の敵は女なんだよ」
「6班、ちょっと残れ」
帰りの会終了直前の突然のお呼び出しに、ざわめきが起こる。緊急学級会の結果をどのようにご注進されたのやら、考えると気が重かった。
「起立。・・・さようなら」
「さようならー」
椅子と机がぶつかる音。興味ありげな、好奇のまなざしで私たちを横目にしたクラスメイトたちは、仁王立ちな先生の存在を前に、仕方なしに教室を去っていった。すぐに教室は静かになり、空気の温度まで変わる。隣近所のクラスからもれ聞こえる声がひどく遠い。
教卓のまわりに五人を集めた先生は、威厳を漂わせるつもりでか、低い声で言った。
「昨日、あれだけ言ったのに、用水路で遊んでいたらしいな」
顔を見合わせる。そんなこと、すっかり忘れていた。まさかそんなことで呼びつけられるとは・・・ゴリラ殿の追及はあれでは終わらなかったようだ。しばらく小言が続く。すいませんでした、もうしません、と言えればすむんだろうけど、心にもないことを言える気分ではない。
四人のめくばせが呉林を動かす。
「別に、危険なことはしてないんですけどね」
ほお、と先生は目を見開いた。
「フェンスの向こう側にいた、と聞いているがな」
「見間違いでしょう」
しれっとした顔で呉林が答える。あっけにとられるよりも前に、笑いをこらえるのに必死。やつはとてもうきうきしているように見える。その向こうには、対照的に腕組みした渋い顔。
「どっちにしろ、言われたことをどうして素直に守れないんだ」
「危険ではない、と判断したからです」
「誰が自分で判断しろと言った! とにかく、その見込みが間違っていたらどうする。あとから後悔したって遅いんだぞ」
あとから後悔、馬から落馬、危険が危ない・・・言葉がだぶっている。口元が歪んできたのであわてて下を向き、右手で口を隠す。
「でも、死んだら後悔もできないね」
しみじみとした純一郎の口調に、我慢は吹き飛んだ。が、すぐにみんなにも伝染し、私ひとりだけがにらまれずにすんだ。
「笑いごとじゃないぞ!」
叱られても、しょげたりはしない。自分が悪いとはこれっぽっちも思っていない相手にいくら怒ったって無駄なのだ。だから私たちには余裕があった。
「どうしてそうなんだ、お前たちは。今日の学級会騒ぎもお前たちが元凶だっていうじゃないか」
失礼なことを言うな! こいつは寄ってくる高田一派の話を頭から信じてるんだ。鈴木くんからちょっと話を聞くだけのこともしないんだ。
瞬間的に沸き起こった私の怒りを察したように、呉林は静かに答えた。
「ご冗談を。わけのわからない喧嘩をふっかけられて迷惑したのはこっちなんです」
が、疑わしげな目は消えない。こいつを先生などと呼のはもうやめようと思った。
「まあ、それは、いい。でも実際に人がひとり死んでいる。冗談じゃないんだ。それに、近いうちにフェンスを修理することになったから、もう乗り越えたりするな。用水路のことだけじゃないぞ、禁止されていることはするな。わかったか」
「わかりません」
担任教師の顔に怒りが浮き上がったが、呉林は臆しない。
「必要だと思ったら、たとえ禁止されていることだろうと僕はすると思うし、多分します。それとも先生は、言われたことはなんでも聞くけど自分で何も判断できない子供のほうがいいとおっしゃりたいんですか」
「まっぴらだ」
草太が即座に同意を示し、葉子ちゃんと純一郎が頷き、私は拍手した。それにおされている一人の大人は、かなり情けなかった。
「だ、だからって、なにかあったらどうするつもりだ。責任は誰が取る!」
「それが本音かよ」
「なんだと!」
「だってそうじゃないか。自分が責任とらされるのがイヤなだけだろ」
「まあまあ、そこまで言ったらミもフタもない」
余裕の仕草で呉林は草太をなだめる。はいはい、わかってますよ、というようにあきらめを漂わせて草太は肩をすくめる。打ち合わせをしていたような二人の呼吸を、私は面白く見てしまった。
「僕らは、僕らの責任で判断を下します。もしもにことがないとは言えませんが、気をつけていても不慮の事故というものはどこにでもありますからね。もうちょっと、僕らを信じたらどうです。難しいことはわかりますけど。一応、今回の、ことは謝罪しましょう。それで、『先生』の立場が守られるなら」
仕方ないね、と私たちは顔を見合わせて頷いた。怒りらしき空気が伝わってきたが、少しも説得力がないから驚かないし、申し訳なく思えない。
「お、おまえらは・・・だったらもう少し自重しろ! 高橋のこともあるんだからな!」
絵に描いたような捨て台詞的態度で、唯一の大人は教室から出ていった。
「あれくらいのことに反論できないんだから、先がおもいやられるね」
皮肉な言葉なのに、呉林の声は痛そうだった。
どうやら千鶴ちゃんの登校拒否は、私たちのせいだと思われているらしい。
口にはしなかったが、五人ともそれを感じていた。私たちのせいではない、と思う。けれど違うという確固たる自信があるわけじゃない。この班になって千鶴ちゃんは喜んでいた。その記憶だけが贈り物。けれどほんとうのことは、千鶴ちゃんしかわからない。
「千鶴ちゃん、いつから来なくなったっけ?」
「二学期の始業式に、倒れて保健室に運ばれたよね。あれって土曜日だったっけ?」
「そうそう、次の週の月曜日からもう来なくなったんだよね。校長の長い話、しかもつまんないってやつを糾弾するためじゃないかって言ったよな」
「何の話、したっけ?」
「うーんと、日曜大工が趣味で、自分の母親のためになんかつくってあげたらえらくよろこんで、みなさん親孝行とは・・・みたいな話」
「よく覚えてるねー」
「どうでもいいことは覚えてんのよ」
「なるほどね。・・・具合が悪いんだとずっと思っていたんだけどね」
「なにやってんだろうな」
とりとめもない会話もため息で途切れる。ただ確かなことは、その日から塩釜を先生と呼ばないのは五人いる、ということだ。