第3章 知識と実践
「十五夜ってさ、てっきり九月なんだと思ってた」
まのびした純一郎の言葉に頷いたのは私だけではなかった。すすきとだんごとうさぎと満月は秋分の日とセットになっているような気がしていたから。
イメージだけで生きている私たち、「今年の仲秋の名月は十月五日です」と言われようともただ頷くことしかできない。しかも担任の時事ネタトークは断片的で、いわゆる『十五夜』が旧暦の八月十五日であると説明されても、それだけでは不十分すぎる。
そもそも旧暦とは一体なんなのか。
手を挙げて質問をするようなわかりやすいかわいげのある子供ばかりじゃない。そのことで、こいつらはこんなことに興味がないだろうと思われたとしても、先月の教訓がそれでいいと言ってくれる。
だから昼休み早々、図書室へ駆け出した。役に立たない大人を前に、どこまでが有益な知識といえるのか自分で見極めないといけない、ということを知った。
「だからかー。すすきをかかえて歩く人を今年は見ないなー、と思ってた。今日だったんだ」
いちばんいろんなことに詳しそうな呉林でもこの始末。百科事典コーナー前の机を占領し、それらしい本をめくっては探す。でも口は動いている。大判の百科事典『あ〜と』を抱える呉林、葉子ちゃんと純一郎は手分けして天体の本、そして私は国語辞典をぱらぱら。草太はまだ書架を歩き回っている。
とりあえず、『ち』を開こう。
見つけた『ち』の下には『ょ』ゆとよってどっちが先だったっけ? 改めて考えればすぐにわかることなのに、とっさにはいつも悩んでしまう。
「発見! 『仲秋の名月』。えーっと、『陰暦八月十五日に見える月』」
みなの視線が集まる中、意気揚々と読み上げるが、その前を天使が通ってしまった。
「・・・それだけ?」
「だから?」
非難囂々だが、それは私のせいではないと思う。
混乱を葉子ちゃんが引き取る。
「ということは、旧暦は陰暦ともいうわけ?」
答えは誰も知らなかったので、私は再び辞書に尋ねることにする。
「・・・あったあった、『陰暦』ね。『月の満ち欠けを基準として作った暦。太陰暦ともいう』だって。『反対語は陽暦』」
「なるほど、陰陽師だねぇ。陰が月で陽が太陽ってわけか」
一人頷く呉林。ここでなぜ陰陽師が出てくるのか私にはよくわからない。はーい、と葉子ちゃんが質問。
「月の満ち欠けを基準に、って、どうやって暦を作るわけ?」
「満月になってから次の満月までがワンサイクルってことかなぁ」
「それって何日くらいなの?」
次の言葉に詰まるとみな私を見る。わーっとページをめくってしまうが、気づけば理不尽にも他の人の手は止まっているではないか。
「んーと、『月』。『地球のまわりを回る衛星。太陽の光を受けて輝く。太陽に対する位置によって形を変えながら、約一ヵ月で地球を一周する』」
「その『約』っていうのが曲者だよなぁ。所詮国語辞典の限界って感じ」
ここまで世話になっておいて何を言うか。呉林をにらみ、無視して話を続ける。
「だから一月・二月って、『月』って言葉使ってるのかな」
「一年に満月が十二回あるってことかぁ」
「だったら、一ヵ月が三十日だったり三十一日だったりするのはなんで?」
「・・・よくわからないな、結局」
無視されてもこたえない呉林の一言に、みなの総意は集約されてしまった。
「だけど、なんですすきにだんごなんだろう」
純一郎は話題を変えたつもりなんだろうか。
「ぶどうとか栗もでしょ」
「ようは秋らしいものってことなんじゃないの。手に入りやすいし」
「まあ、秋は収穫の季節だから、天に感謝を捧げるお供え物としての役割があるのかも」
「だけど、満月は一年に十二回あるんだよね? なんで今だけそう特別なの?」
根本的な疑問は純一郎の得意技だが、答えなければならない側の身になってもらいたい。「知るか!」と声を荒げる草太の気持ちも少しはわかる。しかもこの場合、すぐ前の呉林の言葉が答えになっているような気がするから、一瞬しーんとした。
「・・・きっと、秋がいちばん月がきれいに見えるんだよ」
聞きようによっては鳥肌ものだが、またしても純一郎くんは呉林に対して深い感銘を受けたらしい。目をきらきらさせて何かを言いかけたとき、草太が割り込んできた。
「おい。満月は今日じゃなくて明日になってるぞ」
「え?」
驚きの四重奏。草太の持ってる本を奪い合うようにしてのぞきこむ。月齢表と書かれたそのページには細かい数字がずらーっと。
「ここのならびが、満月になる時間をまとめてあるだろ? 今年で見ると、ほら、十月六日の五時十三分ってなってるぞ」
確かに。
「仲秋の名月って、満月じゃなくていいわけ?」
「それって詐欺!」
「・・・まぁ、待った」
挙げられた呉林の右手に視線が集まる。
「辞書によれば仲秋の名月とは陰暦の八月十五日。その日が満月にならないこともあるってことじゃないか?」
「え、だって、陰暦は月の動きをもとにして決めてるんでしょ。十五日は満月なんじゃないの?」
「誤差があるんだよ。さっき葉子ちゃんが言ったみたいに、一ヵ月が三十一日のときもあるんだし。閏年みたいなもんでさ」
なんとなくわかるようなわからないような話だった。だが、閏年、というたとえには、そこで納得しなければならないような重みがある、ような気がする。
「だけど、五時十三分って微妙だよなぁ」
「なにが」
微妙、に妙なアクセントがついていた。呉林の口元にはりついている笑みはいささかあやしい。反射的に話を促してしまったのは失敗だったかもしれない。
「だってさ、満月を分単位で表にしてるってことは、月の形は分単位で変わっていくってことだよ。今日が満月っていっても、一晩中完全なまんまるを見てられるってわけじゃないんだ」
「完全な満月じゃないのに仲秋の名月を祝うってのもなんか変だね」
「いいんじゃないの? 雨降ったって七夕やるんだし。なんていうんだっけ、こういうの。季節の・・・ふ?」
「風物詩、ですか?」
「それ! ほんのちょっと欠けた月でも、満月だと思えば満月。でもその一日の違いでどれだけ違って見えるのかな」
「確かめればいいんだよ」
確信にあふれる純一郎が、得意のきらきら目でみんなを見渡す。
「今日の月と、明日の月を、じっくり見比べようよ。だって、明日の月がほんとの満月だって、知ってる人しか知らないんだよ!」
そんなのあたりまえだ、と、つっこんで笑うことは簡単だった。けれど、私たちは確かに彼の言葉に心を動かされていた。だから純一郎は侮れないのだ。時計の針が教室へと私たちを追い立てるから、本を元の場所に返して廊下に出る。ふと見ると、草太はさっきの月齢表の載った本を小脇にかかえている。
「あれ、借りたの?」
「いや、持ってきただけ」
涼しい顔に返す言葉がない。『月の魔力』と題された本、確かにあまり借りられていない感じだけど・・・草太には何を言っても無駄な気がする。きっと、用がすんだらこっそり返しにいくんだろう。
思いつきだけの純一郎の案に呉林が乗って、二人はなにやら話を始めている。教室に戻ってもどんどん盛り上がる男たちを葉子ちゃんに任せて私は席を離れた。呼ばれたからだ。
「実は、お願いがあるんだけど」
佐々木由利恵が人に頼み事をするなんてめったにない。それは態度が大きいからでも高飛車だからだからでもない。人に頼むまでもなく、すべて自分でできるだけの力があるから。だから、つい私は周囲を見渡してしまった。
「それ、私に言ってる?」
「もちろん。・・・ちょっと、話を聞いてくれる?」
頷くしかない。彼女の前の席の椅子を引いた。
「実は私、塾に通っているんだけど」
少し声を落とした。クラスの三分の一弱はなんらかの塾に通っているらしい、ということは周知の事実であり、暗黙の了解なのだが、彼女がそうだとは知らなかった。驚きが顔に出てしまったらしく、彼女はあわてて両手を振る。
「あ、別に、勧誘とかじゃないよ。それにれんかちゃんは塾には絶対行かないタイプっぽいし」
「いや、絶対ってことは・・・」
考えたこともない。でも多分、彼女が正解。学校で何時間も勉強させられてるのに、これ以上どこで何をしろと。
「ただ一回だけ、私と一緒に塾に来てもらえないかな」
「え? 勧誘じゃないのに? それに、部外者がいきなり行ってもいいもんなの?」
「見学だって言えば、大丈夫。見てからどうするか決めたい、とか言っておけば」
「でも、もう決まってるから」
「うん。目的はそれじゃない」
「それで?」
「それで、確かめてほしい」
もともと、佐々木由利恵はこんなふうに細切れの文でしゃべる人じゃない。言葉を選ばなければならないほどの何かが、そこにはある。
「それで、何を確かめれば?」
「・・・私が感じている、いやなものの正体」
席に戻ると、もう計画は出来上がっていた。
「明日、四時五十分な」
「は?」
だから、四時五十分集合」
「どこに」
呉林はやたらと言葉をはしょりがちだ。自分はすべてわかっている、と言い張りたいのかもしれないが、それを他人に要求するのはどうかと思う。
「学校の屋上で、月、見るから」
「・・・学校の鍵、閉まっちゃうんじゃないの?」
機械警備、という言葉に何度追い返されただろう。一度施錠した扉などを所定の操作なしで開けた場合、契約している警備会社に自動で通報されてしまう、という理不尽な代物。毎年それで何人かが怒られているけれど、怒られる者もあとをたたない。
「それは大丈夫。非常階段使うから」
なるほど、と納得しかけてすごいことに気づいた。非常階段は三階までで、屋上に直接つながっているわけではない。うつろな笑いでどうにかその場をとりつくろって、訂正を求める。
「ま、まさか、非常階段の、あの踊り場から壁にはりついている、あのはしごみたいなやつをのぼっていく、なんて言うんじゃないでしょ?」
「まさか、とは失礼な。あるものは使おうよ」
頭が痛くなってきた。危険、という言葉はこいつの辞書にはないらしい。救いを求めて他の人を見たが、希望はあっさりと打ち砕かれた。
「大丈夫だよ。楽しそうじゃない」
声が弾んでいる。そうだ、葉子ちゃんはこういうことが大好きなのだ。ブレーキになってくれる人が誰もいない。純一郎はご機嫌だし、草太にいたっては不敵な笑顔だ。
「そーたがすごいライト持ってくるって。なんだったら命綱とかも用意しようか」
かなり情けない表情になってしまったらしい。笑い出した三人を受けて、草太が口を開いた。
「ばかだなー。いくらなんでも見つかったらヤバすぎるだろ。常識で考えろ。まだ治ってないのか、高所恐怖症」
「そんなに簡単に治るなら、恐怖症なんて言うか!」
腹立ちまぎれに草太の足を蹴ったが、あっさりかわされた。むかつく。怒りが収まらないのは、からかわれているにもかかわらず、結果として明らかに安堵している自分自身のためだった。
「じゃあ、どうすんのよ」
「早いうちに屋上に出といて、ドア開けとくんだよ。それで体育館倉庫の窓から帰ればいい」
体育館の第一物置の窓の鍵が壊れていることは、体育の授業で跳び箱を片づけさせられた経験のある者には周知の事実だ。よく考えたらこの学校の設備管理にはかなり問題があるんじゃないのか。
「ドアを開けとくって言ったって、用務員さんが回って鍵を閉めていっちゃうでしょ」
「ロックかかるとこに紙とか板とかさしとけば大丈夫だろ。穴のところにガムテープ張るとか、ガムでも詰めとくのも手だ。一応、あとで試しに行ってくる」
ふふん、と鼻高々で映画マニアは腕を鳴らしている。私はためいきで答えるしかなかった。
「今日の月はそれぞれでしっかり見とけよ。明日はいったん家に帰ってる暇ないから、必要だと思うものは朝のうちから用意しておくように。はい、質問ある人」
はい、と手を挙げる葉子ちゃん。ノリがよすぎる。
「どうぞ、水上さん」
「はーい。必要なものってなに? もしかしてうまく脱出できなかったときのための道具とか?」
一見かわいいお嬢様風の外見にもかかわらず、何故こんなに物騒なことが好きなのか。友達でいることになんか不安を感じてしまうのはこういうときだ。
「いやいや、お月見に必要だと思うもの、ってこと。脱出に関しては僕らが責任を持ちますよ。おまかせあれ」
僕らな三人は目を見交わし、自信ありげに微笑んだりなんかしている。どんな秘策があるのか知らないが、とりあえず彼らに任せておけば大丈夫らしい。駄目だったら責めればいいや。ならば私たちの役割は“楽しいお月見”にある。
帰る途中に、近所のスーパーに寄ることを葉子ちゃんと約束した。
五時四十分、待ち合わせの場所にはもう彼女が立っていた。
「ごめん、遅れちゃった」
「ううん、まだ時間前だよ」
学校近くのコンビニの二階が目指す場所だった。学習塾などという存在とは一切かかわりを持たずに来た私は、つい物珍しげにあたりを見渡してしまう。学校のとは幅が半分くらいの階段、非常口を示す緑の光、すりガラスの扉の向こうではぼんやりとした黒い影が揺らめいている。薄明るい静けさの中、やる気満々な少年少女が写るポスターだけが、この場所を賑わせている。
「ほんと大丈夫? 部外者が行って」
「大丈夫、もう塾長に話してあるから。向こうも商売だからいろいろ言ってくると思うけど、適当に聞き流しておいて」
その言葉にちょっとげんなりした。塾長という人物が商売熱心ではないことを祈りながら、彼女のあとについて扉をくぐった。
「こんにちはー」
蛍光灯の眩しさと、やたら元気な挨拶にたたらを踏んでしまった。もう外は真っ暗に近いのに、なぜ「こんにちは」なのか。由利恵は慣れっこなのか笑顔で答え、声の主に私を引き合わせた。こちらからは、口ごもってお辞儀をするだけにとどめる。
「塾長、前に話してた見学者を連れてきたから」
「あ、いらっしゃい。佐々木さんと同じクラスなんだってね。よかったらアンケート書いていってくれないかな」
恐れていた通り、熱心さをはりつかせる塾長は、事務机から白い紙を取り出してよこした。曖昧な笑みで由利恵に助けを求める。
「あとで。先に教室に行くから」
「じゃあ、帰りに出してくれればいいから」
にこやかな上に押しが強い塾長からうまく逃げ切れず、アンケート用紙は私の手の中に残された。
塾の内部はドアを開けてすぐが玄関と事務室で、スリッパにはきかえた私たちは細い廊下を通って奥の教室に入った。教室といっても、二十人も入ったらいっぱいだろう。横に長い机が三列、壁にホワイトボード。由利恵の話では、こんな部屋が他にもよっつあるらしい。この部屋ではすでに先客が三人、見学者は末席を汚すことにした。
「うしろの端って、逆に目立つんだよ。真ん中の列にしよう」
その言葉にしたがい、左端に。そろそろ時間なのか、次々とやってくる人たちと由利恵は何気ない会話をかわす。見覚えのある人も・・・あ、隣のクラスの人かも。きっと学校の違う人もいるんだろう。これが由利恵の交友関係の広さを示す一因なのかもしれない。なにせ由利恵は人見知りをしない。それだけで私は勝てないし、尊敬もする。
だが一応、社交としての態度は心得ている。挨拶したり、求められるままに会話をする。だが、彼ら正規の塾生たちは見学者の存在を認めつつも、それ以上触れてはこなかった。実に正しい選択。今日はじめて会ったばかりだし、なにしろ私は“仲間”ではない。
そんな、部外者の前でもいつも通りの会話は繰り広げられているのだろう。なにしろ由利恵の表情は不自然ではない。
六時かららしい、教科は算数。あと数分、となったところで席は七割がた埋まった。由利恵の顔つきが変わったのはそのときだった。
一人の少女が由利恵の斜め後ろに座った。
短い髪を耳にかけていて、肌が白くて姿勢がいい。プレンティのバッグから筆記用具を出しながらこっちを見る。こんばんわ、と言った。小声なのによく通る。時刻にふさわしい挨拶にちょっとほっとした。
「こんばんわ」
「・・・あ、この人、ともだち。見学に来たから」
少し早口で、由利恵は私を示した。少女は微笑んで、そうなんだ、と呟く。静かに空気を震わせる。その会話はそれで終わった。
「や、みんな、待たせたかなー」
先生らしき若い男の人が後方から登場した。ネクタイがあまり似合っていないところを見ると、大学生なのかもしれない。話し声が一応止む。
「今日は立体の体積をやるぞー。まずは、この体積を出してもらおうか」
手慣れた様子でホワイトボードに描かれるのは、すみが切り取られた直方体。みんなは追いかけるようにして、自分のノートにそれを写しこむ。私は計算だけして、由利恵に見える位置に走り書きする。
顔、こわばってるよ。
それだけで伝わった。答えも素早い。
わかった?
かすかに頷いてやると、ミッフィーのシャーペンはまた動き出した。
あの人、苦手。
なんで?
よくわからないけど。
彼女も困っているが、私はもっと困っている。“嫌なものの正体”があの少女、もしくはあの少女を苦手だと感じてしまう理由らしい、ということはわかったけれど、一目でその人のすべてが理解できるわけもない。まして、何が原因かなんて。やは早まった、というか、由利恵が無茶な依頼を持ち込んだからだけど、引き受けてしまった私にも問題はある。認めたくはないけれど、草太にいらぬライバル心でも燃やしていたのかもしれない。さまざまに形を変えて現れる立体の体積を求めながら、私は反省することを学んだ。
授業の内容は学校とそれほど大差ない。問題のレベルが多少上かなぁ、という程度。ただ、はっきりと違うのは「わかりません」を生徒がはっきりと言うことだった。学校だったら当たり前の、妙な沈黙がここにはない。
わからないことは恥ずかしいことじゃない、説明を聞いてわかればそれでいい、という信頼関係めいたものができているからなのか、それとも単に時間がもったいないからなのか。もし前者であるのなら、学校ってなんだろう。だからって、この塾に入ろう、という気が起こるわけではないんだけど。
「じゃあ、次はこれだ。どこから見ても六センチの正三角形で、三角すい。この形を何と呼ぶかなー? よーし、遠藤」
遠藤と呼ばれた人はちょっと困ったように頭を揺り動かし、うつむきながら小声で答えた。
「……ピラミッド?」
少女が、くすっと笑った。それが引き金になって教室中が笑い、その子はみりみり真っ赤になった。
私は、わかったような気がした。
「なるほどー、近いぞー! でも残念ながらピラミッドの底面は正方形なんだな。じゃあ、この展開図を描いてみるか」
何事もなくそう講師が続けたように、もちろん悪意のある笑いなんかじゃない。ホワイトボードをこするペンの音が答えをつづる。正四面体。この部屋の空気は和み、何も問題はないように見える。だが彼女は、遠藤さんは笑われることに慣れてはいない感じだ。しばらく、気に病んでしまいそうなほど。そしてそのことも、あの少女にはわかっている。
かすかに首をまわすと、少女はまだ微笑を口元に浮かべている。美しいけれど静かでどこか冷たくて、まるで感情が映っていない。……これがきっと、その理由。
どうも長く見つめすぎてしまったらしい。その笑顔のまま、少女は顔を上げて私を見た。
まずい。
無意識の愛想笑いが少女にどう映るだろうかとおびえていると、少し上級の笑顔を少女はつくってみせた。
アンケートは質がいまいちのコピー用紙で、ペンがひっかかり、字は少しにじんだ。書くべき言葉は全然浮かんでこなくて、くるくる丸めてごみ箱行きになった。
「なんかわかった。あの子が苦手な理由」
風が出てきた。街路樹が黒い影を揺らす帰り道、そう言うと由利恵はうれしそうな顔をした。
「あ、ほんと? よかった、そう思うのって私だけかなってずっと悩んでた。他の人は誰も何も言わないし……そう考える私がおかしいのかなーって」
ふわふわと動く後ろ頭に目をやる。誰もが、思っていることをすべて言葉にするわけじゃない。まして自分が言い出さないのだから、他の人だって口にするとはかぎらない。だが、彼女はもういつもの彼女に戻っている。同じ気持ちをわかちあう、というのはそれだけで価値のあることなんだろう。
「うーん、今度、そーだなあ、遠藤さんにでも聞いてみるといいよ。多分、由利恵ちゃんに同意してくれるんじゃないかな」
「うん、そうしてみるよ。でも、なんで遠藤さんなの?」
「うーん、なんかおとなしそうな感じだから、思ってても言えないんじゃないかなー、と思って」
「そうかぁ。じゃあ、私と一緒なのかも」
頷いている由利恵を見て、思った。もしかしたら、私のこの一言からあの少女は微妙な立場におかれるかもしれない。ろくに話もしていない人のことを、そんなに簡単に判断していいのだろうか。そんなに自分が正しいと自信があるのか。答えは、いいえ。
だが、私はまだ子供なのだ。
考えなしの発言も許されるし、いちいち考えていたのではなにもできなくなることも、わかっている。それに私は部外者だという逃げ道まである。これからを決めるのは私じゃなくて、由利恵や遠藤さんや、あの少女なのだから。
二つ目の曲がり角で、由利恵と別れた。
帰り道を照らす月は、ずっと私のあとをついてきた。