第4章 かぎりなく満月に近い白い月
翌日。
帰りの会が終了するまで、私たちは必要最小限の会話のみ行った。作戦を実行する秘密調査員のように、接触をできるかぎり避けた。誰にも悟られないように、それぞれの準備は着々と進められた。ただお互いの目配せだけが、何かを告げている。
下校時刻。
まずは上履きを下駄箱に収め、靴を持参のビニール袋に入れる。見回りの人に、居残っていることがばれないように。だが靴下のままで掃除の行き届いていない廊下を歩くわけにはいかず、母から部屋履きを借りてきた。これならかかとがあるから、スリッパと違ってうるさい音はしないから。葉子ちゃんは別の上履きを持ってきていた。彼らのスニーカーはもうないから、すでに屋上に集合している模様。
「だけど、意外に残ってる人はいるんだね」
学校からはとっとと帰る、が当然な私にとって、用もないのに居残っている人なんて未知の存在。かばんを取りに教室に戻る途中も、他の教室の隅でかたまっておしゃべりをしている集団をいくつか見てしまった。
「他に行くところがないんじゃないかな。わるだくみしてるんだよ、きっと」
興味ないよそんなこと、と言わんばかりに。葉子ちゃんの毒舌は手厳しい。しかし“わるだくみ”しているのはこちらではないのだろうか。
「あれはね、誰々くんとどうすればもっとお近付きになれるか、とか、ライバルをどうやって追い落とそうか、って話をしてるの。私たちとはレベルが違うわけ。一緒にされたら迷惑なのよ!」
まだちょっと恨みが消えていないらしい。
教室には一人もいなかった。窓がちゃんと閉まっていて、電気も消えているのは律義者の鈴木くんのおかげだろう。お互いの顔がよく見えない状態から、両手を荷物にとられたまま少し明るい廊下に出る。空はまだ青いけれど、またたく間に藍色になり、ムラサキツユクサの花びらのようになっていくことは昨日も経験済み。
「あ、ちょっと手、洗ってもいい? さっき靴の底をさわっちゃって」
「いいよ。私も洗っておこうかな。お菓子食べるんだし」
かばんをその場に置いて、二人で水飲み場に並ぶ。勢いよく流れ出す水はもう冷たくなってきている。冬ももう近いらしい。ふと見ると、いちばん端の蛇口だけが上を向いている。
「また、そういうとこ気にして。れんかちゃんって神経質なの? それとも完璧主義?」
だからそれを下向きに直そうとしただけなのに、笑われてしまった。特にこれといった理由はなく、何も考えずにただ手が動いただけなのに、それを性格として判断されてしまうのはいささか不本意である。
「うーん、どっちかっていうと神経質のほうかな。完璧主義者の称号は呉林にあげ」
言葉が途切れた。ハンカチをしまう葉子ちゃんの手も止まった。
下向きにした蛇口から、ゆっくりと、緑色の物質が細いすじになって流れ出てきた。鮮やかに透明なその緑は見つめていると途中で切れ、ぺたん、と生きたしずくのようにシンクの銀色に張りついた。ぺたん、ぺたんと落下は繰り返され、少しずつ大きくなったそれは自身のお重みで排水口に向かうけれど、動きはあくまで緩慢。じれったさがよけいに、目の前の事実を凍りつかせる。
これは起こるはずのないことだった。
「……なに、これ?」
答えはお互いわかっていたけれど、そう口に出さずにはいられない。なぜここに、こんなものが。私はその蛇口をひねって、まだ残っているかもしれないねばりけのある液体と、そこに張りついているものを洗い流そうとした。わきでる泡。二人でシンクを掃除してしまった。スポンジの水を切り、鏡の横に置く。
「……どうする?」
「どうしよう……」
さまよう視線の先に、静かに立っている液体洗剤。
容器には、まだ半分以上中身があった。
「遅いぞ!」
こっそりと屋上につづく重い扉を開けると、草太の罵声に迎えられた。閉まった状態では見えないように、ガムテープの工作はすでになされている。レジャーシートが敷かれ、三人はしっかりくつろいでいたらしい。ピクニック気分を否応なく盛り上げているのは純一郎くん。大きな水筒をかたむけている。
「それどころじゃないよぉ」
シートに座り込み、葉子ちゃんは早口で今見てきたことを説明する。私も補足。だが、いくら言葉をつくして説明したとしても、あの一瞬のぞっとした気持ちは全部伝えられない。
三人はただ黙って聞いていた。呉林は腕を組んで考え込み、草太の目はきびしく光り、純一郎は口をぱくぱくさせていた。
「でも……ただのいたずらじゃないのかなぁ」
沈黙を破ってくれたのは純一郎。でも誰も答えなかった。こういうとき、出番は草太だ。
「だろうけど、まぁ、ちょっと危険だよな」
それに頷き、深々とため息をつく呉林。
「下手すると、命にかかわるよ」
「えっ! あれって毒なの?」
「あまり体にいいもんじゃないでしょう」
「そういえば、しゃぼん玉の水は絶対飲むなって言われたもんね」
「うん、言われた言われた。昔、間違って吸い込んじゃって、すごいいきおいでうがいさせられてすごーく怒られた。おいしくないものを飲んで、その上怒られるなんてひどいよねー」
非常に純一郎らしいほほえましいエピソードだ。だが薄めたものに対してその始末なら、原液の場合はどうなるのか。
「だけど、誰がそんなことを?」
あの水飲み場を使うのは、主に私たちのクラスと隣のクラス、そのまた隣のクラス。でも同じ階なのだから六年生全員が使っているといっても間違いじゃない。他の学年が使うことはまずないけれど、放課後ならば誰であってもかまわないわけだ。誰でも犯人になりうるし、誰でもないという結果に終わることだってあるだろう。
「とりあえず、明日から休み時間になったら蛇口が下向いてるかどうか、確認したほうがいいな。上のやつには、注意しないと」
草太の意見に私たちは頷いた。担任に言ったり、他の人に協力を求めるなんてこと、考えもしなかったことにあとで気づいた。
「……ところで、今、何時?」
目的に引き戻された。あわてて空を振り仰ぐと、白い月はまだ低くて、でもひどく近くにあるような気がした。いつもよりも、ずっと。
「四時三十八分三十六秒」
答える呉林の左腕には、いつのまにか白スケルトンのGショックが。バックライト付きはこういうとき便利だと思う。空の果てでは夕焼けが、もう藍色に追いやられ始めている。雲は少なく、絶好の満月観賞日和。
「にーちゃんに聞いたんだけどさ、満月の時刻って示されてんのは、日本の標準時でなんだってさ」
純一郎の言いたいことはみんなにうまく伝わらなかった。代表して、私が尋ねた。
「どういうこと?」
「だから、こことじゃずれが出るってこと」
「もっと早く言え!」
草太の怒りはもっともである。「分単位で正確な満月を見る」が目的なはずなのに、それが音を立てて崩れたのだ。確認のため、草太はいそいで本をめくる。
「うっ、日本標準時基準による、って書いてる!」
「じゃあ、何分ずれるわけ?」
「標準時ってどこだ、ここと何度ずれてる」
「うーんと、東経百三十五度」
「北緯四十一度?」
「緯度と経度って一緒にしていいんだっけ?」
「駄目じゃない?」
口々に思いつくまましゃべっているので、段々収拾がつかなくなってきた。が、一人落ち着き払っている純一郎がリュックから地図帳を取り出して誇らしげに見せてみる。それは見開きの日本全図。
「大丈夫、ちゃんと調べてきたよ。呉林の言うとおり、日本の標準時間は東経百三十五度で、まぁ地図でいうと兵庫県明石市。で、まぁ、ここは東経百四十一度って考えていいと思うよ」
みんながのぞきこんだ地図、日本列島上を走る縦線を純一郎は指す。ひとさし指があるのは、百四十度と百四十二度の間ぐらい。
「東に六度のずれか!」
理解の速度を誇りたいらしい呉林に、うれしそうに純一郎は頷き返す。
「そうそう。太陽や月は、他の天体もそうだけど、東から昇ってくるよね。だから、東側にいればそれだけ早く見えるってことだから」
「早く見えるって、いったい何分早くなるんだ!」
草太にえりをつかまれんばかりにつめよられているというのに、すべてに調べのついている男は笑顔をたやさない。その仕組みを知っていることがうれしくてならないように。呉林が左腕を振ってアピール。
「いま、四時四十六分十二秒!」
「ん、まだ大丈夫」
「だから何分なんだよ! 説明はあとでゆっくり聞いてやる!」
あの草太から妥協案が出たのだから驚きだ。私はつい笑ってしまったけれど、純一郎にはなによりうれしい言葉だったらしい。満面の笑顔になって、口を開いた。
「それは、四時四十九分です」
それから私たちはグレーの壁に向かって走り、つま先立ちですがりつくようにして月を見た。
グラウンドからこっちを見上げる人がいたら、五つ並んだ黒い丸をいぶかしんだかもしれない。校舎はT字形になっていて、左肩の部分が屋上として動ける場所になっている。でもこんなところに注意を払う人は誰もいなかった。
しみのように広がっている暗い場所を“海”と呼ぶって誰から聞いたんだっけ。水もないのに、月には海がある。クレーターまではっきり見えるその白い輝きはとてもリアルで、それ以外のものがすべてただの作り物にすぎないような、不思議で奇妙な気持ちになる。どうしてあんなふうに月はあるのか、どうして地球はできたのか、どうして人間がこんなふうにしているのか、どうして私がここにいるのか。なぜ、考えることができるんだろう。ひとりひとりがまったくちがう意識を持っているのはどうしてなんだろう。
どうやら純一郎の得意技も、私の中にはちょこっとあるらしい。
「いっぷんまえ!」
緊張を強いる時計係。誰も、何も言わない。だけど、ずっとじっと見つめているこの月はまごうことなくまんまるで、でも疑えば多少端がたりないかな、と思えてしまう。寸分の狂いもなく確かにきれいな円である、ということを人間の目で判断できるんだろうか。そもそも立体の球を平面の円と見てしまうのだから、私の目では誤差を測れない。
「じゅうごびょーまえ! じゅーよん、じゅーさん、じゅーに……」
律義にカウントダウン。半ば暗い青と化した空が、いつのまにか月の白をひきたてていた。遠くて、冷たそうで、それでもやっぱりきれい。
「……ご、よん、さん、にー、いち、ゼロ!」
数秒後、誰かが息をはいたその音で、なぜか息を止めていたことに気づいた。こんなに一生懸命みんなでそろって見つめていたというのに、月は微動だにしない。
「ところで、正確な満月の瞬間ってどれくらい続くの?」
「それは、誰も調べていない」
無言のまま、それからしばらく私たちは唯一の衛星を見ていた。
お菓子の袋を開けて、お月見の会は始まる。
ジュースで乾杯、けれど次第に昇っていく月はすでに役目を終えており、だらだらとおしゃべりが続くだけ。なにげに左手首を自慢気に呉林は振っているので、一応褒めてみた。
「確かに、バックライトつきはいいよねぇ」
「それだけじゃないぞ!」
褒めるところが違ったらしい。にらまれてしまった。なんかわりにあわない、と思う私に、これだから知らないやつは、と呉林は語気を強めた。
「なかなか手に入らないんだからな、このフロッグマンは!」
「へぇ……カエル男が?」
「カエル男って言うなぁ!」
やつがムキになればなるほど、みんなは笑う。気分を害したらしい呉林は腕からそのカエル男を外して、つきつけるようにみんなに見せた。
「ダイビング用なんだよ。ほら、バックライトをつけるとマンタが三匹浮かぶんだ。二百メートルまで潜っても大丈夫だし、それにW.C.C.S.のオフィシャルモデルなんだぞ」
さらに様々な機能について解説が。男の子ってそういうのに弱いらしく、草太も純一郎もちょっと目が輝いた。だけど、どれほどすごい機能を搭載しようとも、いや、しているからこそ、カエル男の魅力は陸に上がったら半減してしまうのではないだろうか。そもそも呉林は二百メートルもいつ潜るんだ。
呉林の独壇場は、葉子ちゃんの鋭く無邪気な一言で終わりを告げた。
「ねぇねぇ、ところでW.C.C.S.ってなぁに?」
「……忘れた」
いつしか腕時計品評会になった。
メタルブルーのスプーンの持ち主は草太で、やはりすべての機能を熟知して使いこなしている。葉子ちゃんは白のライブドラッチ、純一郎は謎のデジタル時計。
「カシオなのにGじゃないのを持ってるやつって珍しい」
そう呉林に言わしめたそれは、ボタンがやたらと多くて画面もにぎやか。弓矢に剣、指輪などが一秒ごとに点滅、現れては消える。本体上部には、なにやらここから光線が出てきます、というようなレンズのような丸いものが。
「あ、これね、同じやつとデータ通信できるんだよ。ちょっとしたゲームついてるんだけど、対戦もできる。テレビ消したり、チャンネル変えたりもできるんだ。ちょっと操作がめんどいんだけど」
と、その手順を説明するのだが、葉子ちゃんは途中で遮った。
「だったら、普通にテレビのリモコン使ったほうが早くない?」
「うん、早いね。でもほら、こっそりやったりできるから」
「でも、場合によっては怒られるでしょ」
「うん。だから最近は全然……」
しりすぼみの結論には笑うしかなくて。デジタル全盛の中、私のだけがアナログだった。スヌーピーがウッドストックと一緒に森を散歩する、の図。青・白・赤と縦に色分けされたぺらぺらのメッシュベルトが安っぽくて悲しいのだけれど、毎日寝る前にネジを巻く習慣が続いて三年くらいになるので、愛着はある。
「え、これ、いつ買った?」
真剣な表情に変わった呉林が時計をひったくり、裏まで丹念に見ている。いまどきこんなもの持って、と言われると思っていた私は驚くとともに拍子抜け。
「さあ? 親からもらったものだからさ」
四年生になったとき、そろそろ自分の時計を持ってもいいでしょう、ということでもらった。なんでも母が昔、使っていたものらしい。
「手巻きだろ、これ。十分アンティーク・ウォッチだよ!」
そう言われても、首をひねる。アンティーク、という言葉の響きにはヨーロッパの古い家具こそがよく似合う。どうも世界一有名なビーグル犬とは対極にあるような気がするんだけど。
「そんなに古いものかなぁ?」
母はまだ三十代なのですが。
「いや、せいぜい二十年ぐらいだろうけど……今なら多分、数万円とか、下手すれば十万円以上するかも」
「そんな高いのか!」
信じられない私たち。おそるおそる遠巻き。そんなこと言われて、私はこれからどうすればいいのか。気安くつけて歩けなくなるではないか。非難を表明することにする。
「なんでそんなこと知ってんのよ」
「前に、兄貴が買った雑誌に載ってた」
余計な知識を……。が、人のよい純一郎くんは好意的に評価している。
「そうかぁ、じゃあ呉林は腕時計が好きなんだね」
だがやつはふふん、と笑って、立てたひとさし指を横に振る。
「なんにでも興味を持つことがポイントなんだよ。好奇心を失ったら、そこで人は終わりだからね!」
「そこまで大きい話じゃないでしょうよ」
「いや、それが。……映画監督になりたいんだ」
純一郎が食べかけのポテトチップスを落とした。大きな話にはなったが、つながりの見えない私たちはそのまま、ちょっと照れ笑いの本人を見つめてしまった。
「……いったい、何の関係が?」
「それがあるんですよ。どういうものを身につけているかでその人物は判断できるし、ある程度まで暮らし ぶりや性格をあらわすことができるんだ。だからいろいろなことを知っておかなきゃならない、というわけ」
どう言っていいかわからなくて、一口ジュースを飲んだ。壮大な夢をなにげなく語れる彼には多少の気恥ずかしさはあってもそれを上回る自信みたいなものがあることがわかる。あれほど『デッド・ゾーン』に、クリストファー・ウォーケンにこだわったことも、彼の普段の動作ひとつひとつが、未来の映画監督という絵にぴたりとはまっていく。
トッポの最後の一本を食べ終わった草太が、いつものように呟いた。
「つまり、フロッグマンをなにげに自慢する彼は、思わず肩書きに弱いことがわかってしまうわけですな」
「……さよう」
起こる笑いは、居心地の悪さを吹き飛ばす。
「だけどすごいね。僕は全然、将来のことなんて考えてないよ」
「そうだねぇ。とりあえず今はまだ考えなくてもいいかなって思ってるからね」
いつものように純一郎が素直に褒めたたえれば、葉子ちゃんはため息まじりに答える。私にだって、呉林に対抗できるようなものがあるわけではない。ちらっと見るけど、草太の表情は変わらないまま。
「だけど、なんで映画監督なわけ?」
そう尋ねると、たった一言で返ってきた。
「好きだから」
「何を?」
「映画に決まってるだろ! 監督だったらなにもかも、ものすごく細かいところまで自分で決められるんだぞ。こんなに楽しい仕事は他にはないね」
確かに彼はこの上なくうれしそうな顔をしている。もしかしたら楽しさ以上にあるかもしれない大変さについてはまったく気にしていないらしい。いや、そんな大変さも乗り越える自信があるってことかも。完璧主義でありながら、楽天家。たとえ芸術家になったとしても、決して自殺はしないタイプだ。
「じゃあ、今の内からサインでももらっておこうかなぁ」
「待て待て」
カバンの中をかきまわしはじめた純一郎を、全員で止めた。しかしなぜ呉林本人までが止めるのか。それに答える彼は、多分最高に照れていた。
「どうせなら、なってからにしてくれよ」
つまり、呉林は本気なのだった。
しばらくするとお菓子も底をつき、話もつきてきた。
「さて、そろそろ帰るか」
立ち上がって、草太が言った。だから私たちも支度をした。リーダーシップというものがもともと人に備わった資質だというのなら、草太はまさにそんな人間だといえるだろう。本人は決して認めたがらないだろうけど。ゴミを集めて袋の口をしばる。忘れ物もない。
ガムテープもきれいにはがし、証拠は何も残っていない。ドアをくぐると闇の世界だった。
「中の方が暗いんだね」
「明かりがないからな」
「なるほどー」
「そんなことで納得するな」
「え? いやー、月の光ってすごいなぁって思ってさ」
「それなら、まぁ、よしとしておこう」
純一郎の素朴な感想にいちいちつっこむ草太がおかしい。実はいいコンビらしい。
金属のきしむ音。そしてガチャン、とドアが閉まった。そのあとは余計に静けさが。閉じられた扉はもう戻れない何かの象徴、って何かにあったっけ? 鍵をおろす音までも大きく響いて、満月観賞会は終わってしまったのだ。
「机にけつまづくなよ」
注意が飛んだ。ドアと反対側の空間には予備の机と椅子が積まれているからだ。ハロゲンランプがついて、ほのじろい壁を照らす。窓は小さくて今は役に立たない。階段を降りることにだけ集中して、一階まで。一面が窓の廊下にたどりつくと、屋上ほどではないけれど、窓から差し込む光が物の形をぼんやりと浮かび上がらせている。
「あ、ちょっと待って」
水飲み場にあるゴミ箱に、ゴミの袋を捨てた。赤いはずのゴミ箱は、チョコレート色。
「なにもここで捨てなくても」
「だって、持って帰るよりいいんじゃない?」
学校には一応、お菓子を持ってきてはいけないことになっているけど、この中まで調べるような人はいないだろう。
「もう、ライトはいいな」
外から見えると困るから、という理由からスイッチは切られた。急ぐ必要はないのに、みんななんとなく早足だ。でも足音はそんなに響かない。もしかしたらこの音が何かに吸い込まれているからかもしれない。何にって、それは知らないけど。
怖くはない。なのに、ちょっとどきどきしていた。
まるで粒子の粗い写真か、昔のモノクロフィルム、ううん、褪色したセピアカラーの8ミリフィルムのような光景。自分の手すらもはっきり見えない、まるでまったく別のもののような。そう、ここは誰も知らない学校。誰も見たことのない、ほんとうに存在するかどうかわからない空間。
永遠に続きそうな長い廊下をようやく曲がる。つきあたりには非常口を示す緑のライト。歩くたびにその緑は揺れて、とりまく空間まで動く。出口は近い。
早く帰りたい気もするけど、もう少しここにもいたい。なぜか、そんな気がしていた。暗闇は人を不安にもさせるし、落ち着きもさせるって聞いたことなかったかな。でも完全な暗闇じゃなく、ほのかな光っていうのが重要なのかも。満月は最高の舞台装置。もう二度とないかもしれない、みんながいる“誰もいない学校”。
非常口表示の手前の廊下を折れると、体育館へと続くスロープ。黄色いはずの重い扉を男三人が音を立てないように引き、ぽっかりと暗い穴が開いた。
「真っ暗だね、明かりつけてよ」
草太からライトを受け取ったので、私がベルトを肩にかけて純一郎のリクエストにお応えした。そして私は気がついた。
「ちょっと待ってよ。体育用具室って、いつも鍵かかってなかったっけ?」
「そうだよ」
「そうだよ、って……それじゃあ、帰れないんじゃ」
ほとほと困ったような、からかうような声は呉林だ。
「脱出に関してはおれたちに任せろって言っただろ。信用ないな、れんかは。な、純一郎」
「まったくです」
顔がはっきり見えなくても、にこにこと笑っているのがわかる純一郎は、ポケットからあるものを取り出したらしい。
「はい、ライト当てて」
その手に光っているのは、細い針金のようなもの。
「まさか、それで開けようてわけ?」
「もちろんですとも。自分で言うのもなんだけど、結構いい腕してると思うよ、ぼく」
今までに見たことない誇らしげな表情はうれしい驚きだけれど、脱力感はいなめない。そうですか、と引き下がるしかないではないか。
「影にならないように、まっすぐにライト当ててくれる?」
はいはい、言われた通りに。これがいやだから草太は私にライトをよこしたのかもしれない。
「だけどさ、なんで純一郎はそんなことができるわけ?」
そうだ、葉子ちゃん。それは私も聞きたかった。立ちひざの体勢で金庫破りに取り組む彼は声だけをこっちに向ける。
「うーん、そう言われても。ちっちゃい頃から錠前とか好きだったんだよ」
「キミはルイ十六世か!」
「え? なに?」
「なんでもないです」
「で、いろいろいじってるうちに、こうなったというか」
「ふーん、好きこそ物の上手なれ、か」
納得のいくようでまったく納得のいかない説明ではあるが、鍵と錠で遊んでいた人間すべてがなんでも開けられるようになるとはかぎらないのでは。つまり、純一郎には才能があるってことでは。だが、この一見物騒な才能もこいつなら問題なかろうと思わされてしまうのだから、彼の人畜無害ぶりは相当だ。ばかにしてるわけじゃないよ。ある種の尊敬の念が。
ふと気づいたら、あの二人がいなかった。
「ちょっと!」
ライトでさっきの扉を照らすと、一人が通れるぐらいのすき間ができていた。純一郎、ぼやく。
「見えないよ」
そんなことはこの際無視だ。
「草太と呉林がいない!」
「トイレじゃないのかな? すぐ戻るって」
あっさりそう返されたので、どっと力が抜けた。
「二人が帰ってきたときに開いてなかったら、なんか言われるでしょう。だから明かりをよろしく!」
「……はぁい」
それからすぐに、純一郎はその腕を証明した。がらがらといやでも音を立てる扉の向こうには、街頭に浮かぶ跳び箱と丸められたマット、そして壊れた窓がある。アフターケアにも厳しい職人は、内側から鍵をかけても外から鍵をかけたのと区別がつかないと確認してご機嫌。ライトを消す。窓から通り抜けられるのを確かめた葉子ちゃんが、思いついたように言う。
「なんか今日は、純一郎の新しい一面を見たわー」
「え、そうかなぁ。そんなことないよぉ」
照れてみせるが、もしかしたらいちばん謎な存在なのはこいつかもしれない、と私も思った。
奥で扉の閉まる音。行方不明二人組は走り出すこともせず、ゆったりとしたペースで用具室に現れた。
「開いたじゃないか。さすが、純一郎」
「いえいえー」
鷹揚に答えることもできるのに、あくまで謙虚なその姿勢。見習わなければ。肩からはずしたハロゲンランプを、私は草太に押しつけた。
「はい、お返ししますよ」
「なにも今これから、窓をくぐろうってときに返さなくても……」
ぶつぶつ言いながらも素直に受け取った。よく考えれば、この二人が連れ立ってトイレになんか行くはずないんだが、そのときはもう忘れてしまっていた。
純一郎が責任を持って鍵を閉め、私たちは脱出に成功した。