第5章 思索の森
それから数日の間、私たちは暇さえあれば(というか、むしろ積極的に暇をつくっては)校内の水飲み場をパトロールした。誰にも目的を悟られるつもりはなかったけれど、何か気づかれたとしてもただ「きれい好きな人」と思われるのが関の山だろう。
どきどきしながら上に向いた蛇口を下ろす。
もしかしたら、これにも……。そう思いながら冷たい金属に触れる。そして注ぎ込まれた見えない悪意のことを考える。
怖いのは、そこに毒があるかもしれないからではない。何者かが確かに存在している、そのほうが。
毎日凶悪事件は報道されていて、そういう人たちがいることも知っている。でも人は実際に自分が体験したことでなくては心から感じたり、理解したりはできないものなんだろうか。共感や同情には限界があって、高くて厚い壁に阻まれてしまうのなら、あとは何ができるんだろう。
そんなことを考えていたせいか、自分の家の水道すらもすぐには使えなくなった。ちょっと水を流しっぱなしにしてからじゃないと。資源の無駄なんだよなってわかっているんだけど、わかっててもどうにかなるわけじゃなくて。
「それこそトラウマってやつだよ。なにも幼児期の体験ばかりが要因じゃない」
たちこめるキャラメルティーの香り。人の部屋なのにこんなにくつろいでいいのだろうかと思うくらいくつろぐ私に、遥さんはそう言った。『蛇口洗剤事件』と私たちが呼ぶことにした出来事の衝撃を十分に理解した遥さんがはじめにしてくれたのは、私への気遣いだった。
「精神的外傷が治るまでには時間かかるんだ。しばらくは水を多く使ったって気にすることないよ。必要なことなんだし。それくらい許してくれるよ」
頷いて、一口。暖かいのは紅茶だけじゃない。
砂糖が全然入っていないのに、すごく甘いのはなんでだろう。遥さんに尋ねる。
「あ、そうねー。においのせいかも。キャラメルのにおいはもう甘いってわかっちゃってるから、そのにおいに味覚はだまれされているのかもね。この前、友達からスペアミントティーってもらったんだけど、どう飲んでも歯磨き粉の味なんだよね。さすがに飲めませんでした。処分にも困ってる」
飲んでみたい?、ときかれたけれど遠慮した。
「じゃ、かわりにキャラメルティーちょっと持っていくといいよ。気に入ったなら売ってるお店も教えてあげる」
「わぁ、ありがとうございます! ……あ、すいません、これ。ありがとうございました」
本来の目的だったはずの、“借りたものを返す”をあやうく忘れるところだった。あわててかばんから取り出したのは『闇夜の本』と『ダークエンジェル』、そして『十月はたそがれの国』。
「もう読んだの?」
遥さんは驚いてみせるけれど、彼女も相当なものです。なにせ一日一冊の人だから。
「いやー、さすがに受験生だからさ、ちょっと抑えて週に二冊ってとこだね」
そこで私は初めて、母に「遥さんのお勉強の邪魔をするな」と言われたことを思い出した。
「す、すいません。お邪魔して……」
「え? ああ、いいのいいの。どうせ十一時過ぎないとやる気起きなくて。いろいろ言われないためのただのポーズよ。これじゃいけないってわかってるけど、わかってることと実際にすることは別、でしょ?」
からからと笑って。実際、遥さんと話していると、その頭の回転の速さに驚く。そういう頭のよさと学校の成績のよさは別だというけれど、黙ってても遥さんは大学に受かりそうな気がする。
「で、話は戻るんだけど、その後、手がかりはないのよね。他に洗剤のつまった蛇口も発見されてない、と」
「はい、まったく。私たちが見回っているせいなのか、もうその人にやる気がないからなのかはわかりませんけど」
ふむふむ、と頷いて、考え込む。そういえば遥さんの蔵書にはプロファイリング関係も何冊かあった。もしかしたら、というわくわくした気持ちは目の前にいる人物の存在故に一層高まる。
「想像するに、犯人は男。毒薬は古来より女性の得意技って言われてるけど、不特定多数の誰かを殺すとか、傷つけるとかいう概念は女性には希薄なことが多い。特定の誰かに対する恨みが原動力でしょ、女性の場合。この蛇口洗剤事件では特定の誰かが狙われたのではなく、誰でもいいから苦しめばいい、という感覚よね。女じゃないなー」
「そうですね。自分の憎い相手に対してならどんな策でも弄しますよね」
ふと、高田忍の横顔を思い出す。
「でもわかんないよ〜。そう考える女の人もいるかもしれないからさ。手口は陰険だけど地味、でもちょっと知能犯。上を向きっぱなしの蛇口なんて構図、水飲み場では珍しくもないもんね。ましてそこに洗剤が入ってるなんて、想像もしない。自分の考えをはっきり表に出さないか、出せないかで鬱積したものがある。……あまり目立たないタイプで、成績も悪くないと思う。もし犯人だとわかったらみんなが驚く、そんな人」
そんな人はどこにでもいる。誰でもいい、どこかにいる誰かは、誰でもない。まるで“ボブ”みたい。悪意のかたまりが人に憑衣して、その人が心の奥に持っている欲望を引き出す。
「……見つかるでしょうか」
「さぁ、どうだろう。もし見つかるとしたら、それは繰り返すからだろうね。これっきりで終わりだったら、きっとわからないままかも。自分から告白してくれないかぎりは」
「じゃあ、もうやらないかもしれないってことですか?」
「そうであってくれたらいいなっていう希望的観測。みなさんの努力の結果、事は大きくならなかったから、もしかしたら物足りなさを感じているかもしれないし。でも、ほんとにわからないよ。本人ですらも、これからどうするのか決めてないかもしれない」
かすかに漂う哀しさ。平和な日常なんてみかけのものでしかないと知ってしまったら、いったいどうしたらいいんだろう。
「何ができますか、私たちには」
質問の重さに驚いたように、遥さんはちょっと首をかしげつつ微笑んだ。まるで懐かしいものでも見るみたいに。
「うーん、ちょっと難しいけど、れんかちゃんがやりたいと思うことをすればいいよ。多分、それがすべてで。だから、私は祈っておくよ」
なににですか、と聞く前に、遥さんは立ち上がって本をうしろの棚にしまった。とりあえずあいているスペースにどんどん本を積んでいっているように見えるけれど、遥さんはどこになにがあるかちゃんと把握しているらしい。
「それで、ご感想は?」
それが借りた本のことだとすぐには気づかなくて、一瞬ぼんやりしてしまった。
「あ、面白かったです。『浸透圧』のシリーズが特に……。『十月はたそがれの国』はちょっと、難しかったけど」
「うーん、難しいっていうか、独特だからね。ハッピーエンドで終わるわけじゃないし。じゃあ、もうちょっと楽しいものにしようか」
その手によって助け出された本には、『海の回転木馬』と書いてあった。
桜沢邸を辞し、家でかばんをとりかえた私はそのまま歩いて十五分ほどの大型書店に向かった。祝日なのに土曜日というちょっとやりきれない一日は朝から無駄に天気がよくて、見事な秋晴れを今も維持している。いつもなら禁止されているにもかかわらず自転車で行ってしまうのだけれど、休日では誰に見られるかわからない。安全策をとってしまう自分がちょっといやではある。
反対側に五分も歩けば別の本屋さんがあるのだが、そこは老夫婦がやっている小さな店で、当然品揃えはいまひとつ。探し物をするには適さない。だからつい足は別の店に向いてしまうのだ。
しかし母は、目的別に店を使い分けることが大切だ、と言う。だからその店に毎月十数冊の雑誌を注文し、配達してもらっている。なんでもお孫さんが配達を担当しているらしいが、発売日から遅れることもしばしば。でも母はあまり気にしていない。
「種の繁栄はひとえに多様性にかかっているのよ。産業だってなんだって、一局集中したらつまんないでしょ。消費者の賢い選択と言いなさい」
というようなことをよく言っている。どういうことか、よくわかるようでわからないんだけど、とりあえずいろんなお店で買い物をしよう、ということだなと私は思っている。
大型店の前にはずらりと自転車が適当に並んでいて、ちょっとげんなりした。二階建てのこの店は本の種類や量はもちろん、CDや文房具にまで当然のように手を広げていて、結果としてそれなりにいつも込んではいるんだけど。
自動ドアが開くと、音楽とまざった人の話し声が飛び出してくる。不吉な予感は見事的中。雑誌コーナーに人の群れ。できるだけ近づかないですむように、遠回りの道を選んで文庫コーナーに向かう。
なぜ友達同志で一冊の雑誌を囲み、大きな声で品定めができるんだろう、よくわからない。自分が一人でいるときに、いくつもあるそんな輪を邪魔だと感じたことはないんだろうか。ここにいるのは多分中学生ぐらい、なんだろうな。時折あがる大きな笑い声や嬌声がどれだけまわりの人を不快にさせているか、お店の雰囲気を悪くしているか気づかないんだろうか。でも、気がついててもそのままだったらやだな。きっと、わかってないんだろうなぁ。
一人で来ていたらこんなふうにはならないだろう。人数でいる、ということがまわりが見えなくなる原因なら、一人でいる時間を大切にしないといけないんだ。けれど、それだけで解決されるんだろうか。彼女たちのような人たちを見ていると、まったく別な種類の人間なんじゃないだろうか、と思うときもある。ただ共通点は年令が近いってだけで。だから同じ年代というだけでくくられて見られたり、わけのわからない人たちにまとめて語られたりするのは非常に不愉快だ。ひとつひとつ全然違うものをまとめてみたからってどうにかなるのかな。
文庫の棚に着いて、意識を切り替える。同じ階でも奥まったところにあるので、視界に群れが紛れ込まなくてすむ。やっと何の曲が流れているのかも聴き取れる。遥さん大絶賛の『アイリス』だ。
『黒いカーニバル』。私の探し物はそれだった。
難しかった、と口を濁したのは遥さんにどう説明したらいいかわからなかったから。ううん、言いたくなかったのかもしれない。もしかしたら遥さんだって同じように感じているかもしれないのに。私の気持ちをわかってくれるかもしれないのに。でも、はっきりそうとわかるのもいやだったのかもしれない。
ハッピーエンドばかりじゃない。わけのわからないまま終わってしまうこごもある。後味だって決していいものばかりじゃない。手当てしてない傷口みたいに、いつまでも私を悩ませ、いらつかせる。なのに読むのをやめられなかった。読み終わってまうのが怖かった。だから冷静になるために客観的な評価がほしかったのに、『十月はたそがれの国』に解説はついていなかった。だから、私の中ではまだ続いているのだ。
天井まで届く棚にはびっしりと、出版社別かつ作者別に本が並んでいる。海外文学はまた別の棚で、日本の作品とは区別されているので探しやすい。平置きされている新刊の派手な表紙と帯のコピーにつられかけたけれど、予算に余裕がないので今日は見ないことにする。まずは目的のものが先。
一番上の左端から順に。もしかしたらここにはないのかもしれないのに、そんなこと不思議と考えもしなかった。必ずあると思い込んでいた、というより、あると知っていた、ような感じ。一段ずつ目で降りていきながら、ドキドキ感が強くなる。そんなまどろっこしさを楽しんでもいた。
「……あ。あった」
あっけなく、それはあった。はじめに私が立った場所のちょうど目の前。なんだ、呼ばれていたんじゃない。そっと指をかけるとそれはあっさりと私の手に収まった。こういう瞬間があるから、本を読むのは、本屋さんに通うのはやめられない。
早く帰って家で読もう。振り返ってレジを見ると、カウンターを囲む何人もの間を店員さんがいそがしそうにしている。待たされて並ぶのはあまり好きじゃない。出鼻をくじかれた気持ちでぶらぶらと歩き始めた。
……ふと、足が止まった。
見覚えのある姿どころではない。忘れようとしても忘れられないあの人がいた。本を手にとり、優雅な手つきでページをめくっている。目が離せなかった。知らない振りして回れ右をすれば、もう二度と会わなくてすむ。わかっているのに足は動かなかった。
そんなぎこちない気配があの人に伝わらないわけがない。ゆっくりと顔を上げ、彼女は私を認めた。
「あら、お久し振り」
「……ど、どうも、その節は」
芸のないあいさつにめまいがした。予想外の出来事には対応できない性質なのかもしれない、私は。彼女はとても自然に、自然に見せることがとても上手なのに。
「結局、あの塾にははいらないんだ。楽しみにしてたのに」
「い、いや、なかなか時間が合わなくて……」
苦し紛れの言い訳も、すべて彼女にはお見通し。読み掛けの本を戻して、彼女は私のほうに向き直った。
「はじめから、入る気はなかったんでしょ? 目的は敵情視察?」
「え、なんのことかな」
「とぼけなくったって。……わかってたわよ、あなたのことは」
何を、いったい彼女は何をわかっているというのだろう。寒気がしそうだ。彼女の力のこもった目を見ていると、それもあながち嘘じゃない気がするから怖い。
そうだ、私はこの人が怖い。
あっちの棚で群がる彼らとはまた別の意味で、私には理解できない人だから。
その人は、ふふん、と挑戦的に私を見下ろしている。驚いたことに、彼女は自分自身やその感情を押し殺す気はないようだ。初めて会ったときにまとっていた静けさというベールを捨ててしまっている。
この人は、私に挑戦している。もしくは、してくれている。何に対してか、そして何故なのかはわからない。もしかしたら存在そのものとして。だから私は受けて立つことにする。自信はないけど。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
口の中が乾いていた。
「……人を傷つけるって、楽しいですか?」
「楽しいよ、すごく。もう他のことでは物足りなくなるくらいに」
見事な笑顔で彼女はそう言った。この状況じゃなければみとれてしまうような笑顔だった。
「だから?」
だから……私は懸命に言葉を探した。何かを言わなければ、彼女は去ってしまう。
「でも、どうして? どうしてそんなふうに言えるの?」
「誰も彼もに言うわけじゃないわよ。通じる人にだけ。まさか一目で見破られるとはね、私もまだまだだわ」
彼女はうれしそうに微笑んで歩き出す。でも帰るためではなく、私がついてくることがわかっていて。端まで歩いて、本棚のない壁に彼女はゆっくりもたれた。見方によっては仲良しに見えるであろう小学生二人を、年かさの男性がすれちがいざま眩しいものでも見るように見送っていた。
「まだ何か言いたそう。たとえば、人を傷つけるのはよくないことだ、とか」
「でも普通、よくないでしょう。傷つけられた人の気持ちになってみたら」
「じゃあ、逆に考えてみてほしいんだけど。まったく人を傷つけることなく一生を過ごせると思う?」
「そ、それは……」
あっさり詰まった。その気がなくても相手を傷つけてしまうことはある。知らないところで、いくらでも。
「でもそれは極論でしょう。仕方がないことと、わざとやるのはまた別の話」
「傷ついた分だけ優しくなれる、ってよく言うじゃない。そのおかげでよくできた性格になっていくるならいいじゃない。逆に感謝してほしいくらいよ」
「それは結果的に、ってことじゃない。それまでの精神的苦痛はどうなるわけ?」
「じゃあ、まったくこっちにはその気はないんだけど勝手に相手が傷つきましたって場合に、相手に反撃されたらこっちの受けた苦痛はどうなるわけ? よくわからないけど自分のせいみたいだから、あきらめて受け入れますって言う? だとしたら、ずいぶん幸せな人生を送ってきたみたいね」
けれどそれは賛辞ではなく、いくぶんの哀れみが入っていた。あまりうれしくない。壁に手をついた。ひとつひとつ言葉を選びたいんだけど 選びきれなくと話はとんでもない方向へ進んでしまいそうだった。
「じゃあ、人を傷つけることは、許されちゃうわけ?」
彼女は口元を手で隠した。思わず笑ってしまったのをどうにかごまかすみたいに。自分の表情を完璧に制御できているのか、そう思わせるのもそもそも作戦の内なのかもうよくわからない。
「誰が許すっていうの? 生きていくのに誰かの許しが必要だっていうの? そんなわけないでしょ。むしろ許すのは私。私をこの世界に生み出したことを、私が許してあげなきゃいけないのよ」
細身のジーンズをはいた足を投げ出す。上はチェックのネルシャツで似たような格好なのに、彼女のほうが動作は優雅でいちいち絵になっているように感じる。彼女の言うこともすごい効果をつれてくる。
「どうやらあなたは性善説みたい。でもそんな区別に無理を感じたりもしてるでしょ」
自分でもわからないんだけど、私はいつしか彼女を称賛する方向で彼女を見ているみたいになっている。説得されているわけじゃないけど、彼女の言うことを私はすごく考えている。
「ちょっと考えてみてほしいんだけど、自分の親しい人が事故で死んだらどう思う? あきらめられる? それとも事故を起こした人を恨む?」
「その事故はわざと起こしたわけじゃなくて、不可抗力で?」
「うん、不可抗力で」
そんな体験がないからわからない、と言ってしまったら負け。大切なのは想像力と共感する力。だから……多分、怒る。でもその怒りは誰かに対してのはっきりしたものではなくて、運命みたいな形のないものに対してかもしれない。
「うーん、あきらめる、しかないんじゃない?」
「じゃあ、もし殺されたとしたら? そしてはっきりした動機がわかって犯人が捕まるのと、通り魔みたいに動機がなくてただ単に運が悪いってだけで、しかも犯人は精神病院に入って無罪。どっちがやりきれない?」
こんな物騒な例を引いて、彼女は一体何を答えさせたいのだろう。
「……無罪、のほう」
「まぁ、それが大方の人間の気持ちよね。つまり、本人にそんなつもりはなくても、結果のほうが重要だってこと。同じ結果になるのならはっきりした理由があって、結果を覚悟として受け入れるほうがましってこと」
腕時計の位置をより手首に近いところに直している彼女に頷きかけている自分に気づいてあわてる。意地悪にならなければしゃべれなかった。
「それと、人を傷つけるのが楽しいっていうのとはつながらないと思うんだけど」
「そう? そうかな? 言い換えれば、私は自分の中にそういう覚悟を積み重ねていくのが好きって感じなのかな。今、ろくな死にかたしないぞって思った?」
「どういたしまして」
「気にしなくていいわよ。だってわかってるから。というより、それを楽しみに待ってるのかな」
「ろくでもない死にかたを?」
すっとんきょうな声を上げかけた私を微笑みで見つめる彼女は、まるで誇り高い生き物だった。
「そう。私は生きることも人間そのものもあまり好きじゃない。だけど自殺するのは主義に合わない。負けるのはキライだもん。だから誰か私を殺してくれないかなって。いつか誰かに殺されるために、生きてる」
冗談だって笑ってすませることもできただろうけど、笑顔も含めてすべて彼女の本気だとわかったからできなかった。少し先を見つめるまなざしも、ぴんと張った背中も、そして凛とした横顔も、どう見ても心のいやしい人間の持てるものとは思えなかった。彼女の言っていることをすべて理解できるわけでも共感できるわけでもないけど、私には彼女が間違っていると言い切ることはできなかった。
「……ちょっと話は変わるんだけど、聞いていい?」
頷いてくれた彼女に、私は蛇口洗剤事件のあらましを語った。
「ふうん。それで、私に何を聞きたいわけ?」
ふと、はじめのときの少しけだるい皮肉っぽい感じが戻ってきたよう。
「できたら犯人像というやつを」
「私はレクター博士待遇なわけ? 悪くないわね、なかなか」
世紀の大犯罪人に模されて喜ぶ人もなかなかに珍しい。ならば私はクラリス・スターリングか。交換にトラウマを捧げないといけないのだろうか。だったらジャック・クロフォードのほうがいい。
「やってることが甘いわ。不特定多数を狙うってこと自体が曖昧な気持ちのあらわれ。しかも誰がいつひっかかるのか、仕組んだ本人にはわからないじゃない。あとから知るだけじゃスリルもないし盛り上がりに欠ける。少なくとも、私はやらない」
じゃあ彼女ならどうするのか、尋ねたいのはやまやまだったけど、やめておいた。
「つまり覚悟もない、気弱な人物?」
「一言でいうなら。でも、またやるかも」
心配を見透かされてぎょっとする。
「な、なんで」
「だって、何も起こらなかったから。何かを起こしたいって気持ちがあるなら、またいつか動き出すかも。それがいつかは、わからないけどね」
意味ありげに、謎めいた微笑み。抽象的な答えの数々。彼女は存在自体が謎かけなのだ。私に何かを考えさせるための、行動に移させるための。
「それ、買うの?」
指さした先にあるものがなんなのか、わかるまで空白があった。本屋にいたことに改めて気づくと、音楽がはっきり耳に入ってきた。対談は終わった、らしい。まわりというものを認識している私を見る彼女。あきれながら、哀れみながら、それでも多少は残る愛情めいたもの。ほんとうに人間がきらいなのなら、こんな表情はできないはずじゃないかなあ。
「じゃあね。もう会わないかもしれないけど」
詠うようにそう言って、彼女は背を向け、一度も振り返ることなく去った。
これは夢かな。
彼女はほんとうにいて、かわした言葉も単なる妄想じゃないって証拠はどこにあるんだろう。ふらつきながらおぼつかない足取りでレジに行く。証拠はないけれど、確かに財布は軽くなった。